日本探偵作家クラブの発足
終戦後、江戸川乱歩は自分を訪ねてくる探偵小説関係者たちが増えたため、皆が一同に会する場を提供したいと考えた。探偵小説専門誌「宝石」の版元・岩谷書店が入っていた日本橋川口屋銃砲店の二階広間を借りて、第一回の会合が開かれたのは、一九四六(昭和二十一年)六月十五日のことであった。
「【六月十五日】宝石社二階にて探偵小説を語る会。予外国探小について語る。二時間。水谷、角田、城三君のほか若い人十数名。〔註、これが今の探偵作家クラブ土曜会の前身第一回である。戦後、私のところへ遊びにくる若い人(同好者や作家志望者)が俄かに多くなり、みんな集まるには、私の家では狭くなったので、当時、日本橋川口屋銃砲店ビルの一階の一部を借りて「宝石」を発行していた岩谷書店にたのみ、銃砲店の二階広間を借りて、そこで第一回の同好者の集まりを開いたのである(後略)〕」
(江戸川乱歩『探偵小説四十年』桃源社版より)
大下宇陀児の発案で、開かれる曜日から「土曜会」と命名されたこの会は、以後、探偵作家や愛好家たちの親睦会として、月に一回の割合で開催されることになる。四七年三月からは、「黒猫」の版元イヴニング・スター社の厚意で交詢社に事務所が置かれ、会合は京橋第一相互ビルの東洋軒で行われている。また、四七年二月から三回にわたって、「土曜会通信」と題したガリ版刷のパンフレットが配布されたが、これはなんと、江戸川乱歩の直筆であった。
毎月、各界からのゲストを招いて開催された土曜会だが、その席上で、単なる会合ではなく、きちんとした会を作りたい、という気運が高まってきた。横溝正史、水谷準、角田喜久雄らの提唱を受けて、保篠竜緒が規約の原案を作成、江戸川乱歩、水谷準、延原謙の各氏が、これを基に検討を行った。こうして、一九四七(昭和二十二年)六月二十一日、日本探偵作家クラブが発足したのである。創設時の会員一〇三名、会長には江戸川乱歩が就任した。会長職は、乱歩が二期(四七~五二)にわたって務めた後、大下宇陀児が第三期(五二~五四)、木々高太郎が第四期から第六期まで(五四~六〇)、渡辺啓助が第七期(六〇~六三)を、それぞれ務めている。