ずいひつ

歳を取ると根性がひねくれてくる

若桜木虔

 私が東京の町田市のカルチャー・センターで「小説の書き方講座」を開講して二十年以上の歳月が過ぎた。それからしばらくして、「公募ガイド」という月刊誌に、山村正夫先生の後を継いで連載を始め、それが今春で二百五十六回に達したから、つくづく長い。
 その間に、『信長の棺』のベストセラーを出した加藤廣さんを始め、幸運にも大勢の新人賞受賞作家を世に送り出すことができた。ところが、なぜかジャンルが、時代劇に極端に偏っている。
 朝日時代小説大賞が三人、歴史群像大賞が二人、富士見新時代小説大賞が一人、小説現代長編新人賞が五人、日経小説大賞と『幽』怪談文学賞が各二人、角川春樹小説賞と日本ファンタジーノベル大賞が各一人(全て時代劇)で、今年に入っては、川越宗一さんが去年の松本清張賞に続いて『熱源』で直木賞に輝いた(どちらも時代劇)。
 こうなると、新しく入門してくる生徒も、当然の流れとして時代劇を志望する人が多く、私も時代劇や時代考証本に読書の傾向が偏る。
 そうすると、読んでいて「あれ? この時代に、この言葉は存在したか?」と疑いの目で見る場面が増える。で、百均で付箋を買ってきて、疑問箇所にベタベタ何十枚も貼りながら読み進むのが習い性になった。いよいよ、根性が、ひねくれてきたのである。
 さて、表題に謳った「根性がひねくれる」だが、こういう人間のことを揶揄して「旋毛(つむじ)曲がり」とか「臍(へそ)曲がり」という。
 ところが、「旋毛曲がり」は明治二十三年の幸田露伴の造語で、「臍曲がり」となると昭和二十二年の渡辺一夫の造語らしい。「旋毛曲がり」「臍曲がり」の人間は『三河物語』を著した大久保彦左衛門とか、大昔から存在したはずなのだが、さて、何と言ったのであろうか。
「根性腐り」なら近松門左衛門が享保五年(一七二〇)に『心中天の網島』で使った造語で、それ以前に遡れない。
 浄瑠璃繋がりで「影武者」を調べたら、これは明和六年(一七六九)の近松半二の造語と分かった。戦国時代に影武者が存在したことは常識のように思われているが、さて、何と言ったのか。単に「影」だろうか。調べたが、分からない。
 ところで、ここ数年は台風で、あちこちで「地滑り」や「崖崩れ」の被害が起きている。こういう被害は大昔からあったはずだが、「地滑り」は大正三年のDislocationの翻訳造語で、「崖崩れ」は島崎藤村が『破戒』で初めて使った造語らしい。
 昔は「山崩れ」「山津波」と言った。「山崩れ」は日本国語大辞典では元禄十年に俳諧で初めて使われたことになっているが、『日本書紀』に出てくる。
「山津波」は、江戸時代からの言葉のようだ。そもそも「津波」が、江戸時代に書かれた『甲陽軍鑑』が初出ということになっている。つまり、戦国時代以前だと「山崩れ」しか使えないことになる。
 これなどは元が漢字だから、「ひょっとして明治時代以降の造語では」という疑惑の勘が働くのだが、全部が平仮名だと、大昔から使われているような気がしてくる(それは私だけかも知れないが)。
 が、一度、引っ掛かってから生来の根性曲がりに拍車が掛かって(ちなみに「拍車」は明治三十四年に森鴎外が『即興詩人』で使った翻訳造語で、「拍車を掛ける」は大正八年に菊池寛が『恩讐の彼方に』で使った造語である)平仮名言葉まで初出を調べるようになった。
 江戸時代からありそうで、ついつい時代劇に使いたくなる言葉では、まず「ずらかる」がある。これは明治三十一年の小栗風葉の造語で、時代劇に使うなら「遁走」になる。これは『史記』に出てくる。
「まるめこむ」は、壮士演歌集団青年倶楽部のリーダーだった久田鬼石が明治二十年頃に作詞した『ヤッツケロ節』という演歌の作詞で使った造語で、江戸時代以前なら「籠絡」(『宋史』の言葉)を使うしかない。
「くそったれ」も江戸時代から使われていそうだが、これ小川為治が明治七年に著した『開化問答』で使った造語。その前は「っ」が入らない「くそたれ」だった。
 だが、これも享和二年(一八〇二)の十返舎一九の造語で、それ以前の時代なら「糞痴」と書いて「くそたわけ」と読んだ。
 しかし、これも元禄十六年(一七〇三)刊行の浮世草子に出てくる造語なので、江戸時代の初期以前には使えない。
 織田信長に対する悪口の「うつけ」とか「馬鹿者」とかが、戦国時代に使える言葉となる。「馬鹿者」は『太平記』に出てくる。
 しかし「大馬鹿者」となると、初めて使ったのが明治三十五年の国木田独歩らしいから、事は非常にややこしい。
 で、この「ややこしい」が文久三年(一八六三)に滑稽本の『穴さがし心の内そと』で初めて使われた造語なので、これ以前だと「怪奇」(『論衡』の言葉)になる。
 現代人だと「複雑怪奇」と頭に付けたいところだが、これは昭和二十四年の竹山道雄の造語で、そもそも「複雑」が明治十年に『博物学階梯』が中川重麗によって翻訳された際の造語だから、時代劇には使えない。
 こうやって調べ出すと、時代劇には使えない言葉が芋蔓式に増えてくるばかりで、際限がない。いよいよ性格がひねくれていきそうである。