追悼

森村誠一さんの思い出

権田萬治

 森村誠一さんとは氏が『高層の死角』(一九六九年)で江戸川乱歩賞を受賞された直後からの本当に長いお付き合いだった。
 そのきっかけは、森村さんが、推理作家協会報で、『高層の死角』があるミステリー愛好家の会の方々から酷評され、ショックを受けたことを告白された「マニアの批評」という短文だった。
 当時、私はある雑誌の推理小説時評を担当していて、この問題に触れて「批評の節度について」という文章を書いた。ところが、その文章が関係者の怒りに火を注いだのか今度は私が猛烈に叩かれていたらしく、森村さんから「巻き込んでしまい申し訳ないという」ハガキを頂いたのである。
 が、当の私は、当時はミステリー評論の可能性を模索中で無名に近かったから、ジャン・コクトーの「攻撃する時でも一流を相手にしたまえ」 という考えもあり、、私も少しはミステリー愛好家の間で無視しえない存在になったのか、と内心面白がっていたくらいで、全然気にはしていなかった。
 その後も仕事関係で何度もお会いしたし、お便りを頂いたりもしたが、森村さんは年を追うごとにホテルマンとしての体験を生かした、超高層ホテル、国際空港、新幹線など、現代的で斬新な舞台設定で人気を集め、さらに社会性を加味した『腐蝕の構造』(七三年)で推理作家協会賞を受賞、文壇的地位を確立した。
 私は評論家としての立場上、作家からの接待は受けないことにしているが、一度だけ森村さんから日比谷のレストランでフランス料理をご馳走になったことがある。長短編全集二十五巻が出た時に、出版社の担当部長の方とご一緒で、私は全巻に解説を書いていた。
 記憶が定かでないが、ちょうど森村誠一ブームが頂点に達した『人間の証明』(七六年)が出た後の時期だった。この時は、森村さんが電車に乗っていたら、男の乗客が大きな声で少し離れた距離から、「こういう人が乗るから電車が混むんだよ」と聞こえよがしに仲間と話しているのが聞こえたと森村さんが笑っていたのを思い出す。この時期、森村さんは名前も顔も全国区の知名度だった。
 八七年からは十年間、私は森村誠一、佐野洋、夏樹静子、角川春樹の各氏とともに横溝正史賞の選考委員をしていたので、お会いする機会も多かったわけだが、森村さんは、推理作家協会賞を『蒸発』で同時受賞された夏樹静子さんには特に同期生的な親しみを感じられ、一緒に機会があればパーティーも開催したい気持ちも持って居られたと思う。が、その後の闘病生活でついに実現しなかった。
 森村さんには日本の細菌戦の秘密部隊の中国での犯罪的行為を暴露した『悪魔の飽食』(八一年)というノンフィクションがあり、大きな反響を呼んだが、一時は脅迫状が舞い込んで、警視庁の護衛が付く、大変な時期もあった。森村さんはそういう圧力にも毅然として耐え、反戦平和の立場を生涯貫いた。
 実は、先に亡くなられた西村京太郞さんは六歳、森村誠一さんも私より三つ年上である。 だが、私の評論活動の時期がお二人と重なっていたので、私には同時代作家という意識が強かった。それだけに森村さんの旅立ちは私にとっても大きなショックでこたえた。
 だが、森村さんは、遠い世界で、今ごろはかなり前に旅立たれた親友の笹沢左保、山村正夫さんなどに、〝同期生〟夏樹静子さんも合流し、大好きなコーヒーを前に楽しく盛り上がって居られるのではないかと思っている。 本当に、長い間ありがとうございました。
 安らかにお休みください。さようなら。