師範代・矢吹哲也さん
矢吹哲也さん(六月十七日、七十三歳没)との最初の対面は二〇一三年十月十二日(土)、NHK文化センター町田の若桜木虔先生の小説講座だった。当時五十一歳の私は人生最後の挑戦と思い定めて入門した。
先輩の矢吹さんは二〇一二年度第十九回松本清張賞で、柏木哲也名義の『闇を切り裂く誘拐者』が二次予選通過十編に入られ、すでに師範代の風格だった。
初心者の私は『闇を』を購読して壮大なスケール、緻密な描写に圧倒されたものだった。
中央競馬会理事長の孫娘の誘拐から始まる本作は一級の誘拐ミステリーであり、競馬界の闇を突く社会派ミステリーでもあった。
毎年、巨額の国庫納付金を納める中央競馬会は予算化されている以上、必ず一定のノルマがある。このため、年に何回か出来レースを組み、暗号で関係者に通知している。これが本作の眼目だ。
誘拐犯らはこれに乗じ、膨大な身代金を安全にせしめようとする。捜査本部に駆り出された老刑事・葛城が主人公で、誘拐犯と競馬会の狭間で苦闘する。
壮大なモチーフだが、瑕疵が幾つかあった。指摘したが、矢吹さんは意に介さなかった。
逆に「キャラたちが勝手に動いてゆくグルーブ感のほうが大事」と教えられた。「狂言誘拐は白ける」とも教わった。
矢吹さんは二〇一七年度第十六回『このミステリーがすごい!』大賞で『生放送60時間――キボウノヒカリ誘拐事件』で一次選考を通過された。このときは、私も応募していた。
七月八日(土)、教室に行くと、矢吹さんは笑顔で若桜木先生に一次通過を報告していた。結果的に、私は己の落選を知った。
ここから奮起して私は『クラウドの城』で二〇二一年度第二十五回日本ミステリー文学大賞新人賞を受賞した。さらに二〇二三年一月から若桜木先生の小説講座を引き継ぎ、執筆の傍ら創作指導を手がけている。
無冠の矢吹さんの生涯と作品を思うと「野に遺賢あり」の感を強くする。受賞しなくても素晴らしい作家、作品は存在する。だが、一人でも多くの受賞者、受賞作を門下から輩出したい。矛盾しているだろうか。矢吹さんなら、きっと笑い飛ばすだろう。
「キャラを立てろ、動かせ」
師範代、これでいいんですよね。あの世での再会、人生の答え合わせを楽しみにしております。