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クロロホルムと青酸カリ

若桜木虔

 クロロホルムに関して根本的に思い違いしているミステリー作家は、残念ながら非常に多い。
 クロロホルムを嗅がせて失神させるには、だいたい五時間から八時間ぐらい嗅がせ続ける必要があり、しかも個人差が大きくて、九割の人間は気分が悪くなるだけで気絶しない。
 ハンカチとかタオルにクロロホルムを染み込ませたものを顔に被せられ、瞬時に意識喪失、などということは100%ない。
 ましてや、鍵穴から、こっそりクロロホルムを流し込んで、室内にいる人間全員を昏睡状態に陥れる(そういうミステリーがあった)など、不可能である。
 手術時のように、患者にマスクを被せて吸引させるような方式でも使わなければ、昏睡状態にすることは無理である。
 次に、青酸カリ。
 これは一般的には猛毒だと思われているが、学生時代(東大の生物学専攻博士課程)に様々な毒薬を扱っていた人間の目から見れば、青酸カリは猛毒ではなく、中程度の毒物である。
 しかも、激烈な味がする。
 口紅に混入するとか、切手を舐めて貼る性癖のある人間を毒殺するのに切手の裏に塗っておく、などの方法で毒殺することは、ほぼ不可能である。
 激烈な刺激があるので、すぐに水で洗う。嚥下するなど、まず、有り得ない。
 これは、故人となられた由良三郎さん(東大の医科学研究所教授だった)でさえ間違えておられたので「先生。その方法での毒殺は不可能です」と電話で申し上げたのを記憶している。
 青酸は致死量にならない微量で用いると、喘息の発作を止めるのに劇的に効く。
 日本薬局方で青酸は入手できるが、毒物であるので、身分証明その他、購入に際しては、かなり厳重な審査がある。
 当然、通販などで手に入れることはできない。
 青酸の商品名は「杏仁水」である。匂いを嗅げば、青酸中毒死の人の口から匂うとミステリーでは定番で言われる、もろ、「アーモンド臭」である。
 夏目漱石の『吾輩は猫である』にも「早く医者に見てもらって服薬でもしたら四時前には全快するだろうと、それから細君と相談をして甘木医学士を迎いにやると生憎、昨夜が当番でまだ大学から帰らない。二時頃には御帰りになりますから、帰り次第すぐ上げますと云う返事である。困ったなあ、今、杏仁水でも飲めば四時前には、きっと癒るに極っているんだが、運の悪い時には何事も思うように行かん」と出てくるほどで、明治時代から効能が知られていることが分かる。