追悼

原田ヒロシさんのこと

新保博久

 原田裕さんは、ご懇意願った編集者のなかでいちばん……いちばんご馳走になったかたである。原田さんが社長職にあった出版芸術社から刊行された『龍は眠る』が日本推理作家協会賞に選ばれたので、受賞者の宮部みゆきさんにお祝いの席を設けることになり、しかし差し向かいもやりにくいとて、別に関係ない私がお相伴させてもらった。湯島あたりだったと憶う。原田さんの馴染の店だったらしく、ユタカちゃんユタカちゃんと、お店で働く女性陣に大変なモテぶりだった。そのとき初めて原田ユタカさんと訓むのだと知ったものだ。それまで原田ヒロシさんだとばかり思い込んでいた。
 学生時代から古本で買った東都書房の本のあとがきなどに原田裕さんへの謝辞がたいてい書いてあったが、ルビは振られていなかったので。講談社から東都書房、出版芸術社時代に至るまで、原田さんは自分の手がけた本にたいてい著者あとがきを書かせた。せっかく本を出すんだから、何かひとこと言いなさいよ、と勧めたらしい。〈東都ミステリー〉五十三冊のなかで、あとがきがないのは、そんなものがあるとトリックが成立しなくなる都筑道夫『猫の舌に釘をうて』が唯一だろう。都筑さんはのちに、「原田さんのように変った趣向を面白がってくれる編集者がいなかったら、『猫の舌に釘をうて』や『三重露出』は出来なかっただろう」という意味の回想をしている。そんな文章を通じて、原田ヒロシの名前は私の心に記銘されていたのだった。
 しかしようやく面識を得たのは、こちとら学校を出て業界の禄を食むようになってからで、原田さんは講談社を退職したあと、みずから出版芸術社を興していた。そうするうち、私が関わった仁木悦子作品集が、同社の刊行物では比較的好調だったものだから、「何か好い企画はないかい?」と頻りに聞かれるようになった。実際には、それ以外にほとんど武勲を立てることは出来なかったのだが。
 こちらが推理作家協会賞にありつけたときも、共同受賞の山前譲さんともども招ばれてお祝いしていただいた。正賞の腕時計は私が託されていたのだが、原田さんにお見せしようと持参して、今度は山前さんが持ち帰った。あの時計、何処へ行ったんでせうね?
 もう私は余生に入っているから時計の行方など気にしても始まらないが、今や境を異にすることになった幽明の関をいつか跨いで再会する日が来たら、あの温顔に笑みを湛えた原田さんに「何か好い企画はないかい?」と聞かれそうな気がする。考えておかなければ。
 晩年には電話で一、二度お話ししたが、最後にお会いしたのは大久保駅近くの病院に見舞ったときである。その快気祝いがカタログギフトで、愛用のウィスキーグラスをうっかり割ったところだった私はバカラに引き換えた。このグラスで飲むたび原田さんを思い出すに違いない(つまり毎晩か)。