目から鱗の卓袱台と凧揚げ

若桜木虔

 また時代考証間違いの話を書かせて頂く。
「目から鱗が落ちる」が、かなり時代考証が正確な方々の文章にも頻出する。
「目から鱗」は新約聖書の『使徒行伝』の第九章第十八節の「サウロの目から鱗のようなものが落ちて、元どおり見えるようになった。そこで彼は立ってバプテスマを受け」に由来するのだが、どう考えても新約聖書を読んでいるとは思えない人物の台詞に使われているので、これは作者が語源を知らずに使っているとしか思えない。
 卓袱台も同じく、かなり時代考証が正確な方々の文章にも頻出する。戦国時代が舞台の某新人賞受賞作にも出てきたのには驚いた。江戸時代が舞台の時代小説だと、これはもう、枚挙に暇がないほど大量に出て来る。
 ところが卓袱台は明治時代に入って以降のものなのだ。安永八年(一七七九)に朱楽菅江が書いた洒落本『大抵御覧』に「卓子台」と出て来るのが家具としての初出で、明治になって仮名垣魯文が『西洋道中膝栗毛』の中で「食机」に「ちゃぶだい」とルビを振ったのが、読み方の初出。
「ちゃぶだい」の読みで「卓袱台」の文字を使うようになったのは誰が最初かは未だ突き止めていないが、いずれにしろ明治時代の造語であることは疑問の余地がない。
 次が「がんばる」である。「がんばる」は延享二年(一七四五)に並木千柳が浄瑠璃『軍法富士見西行』で使ったのが文献上の初出で、歌舞伎役者が大股を開き、両眼をカッと極限まで見開いて見得を切る意味で「眼張る」と書いた。
 現代の意味は、昭和十九年に童謡『お山の杉の子』の六番に「勇士の遺児なら、なお強い。体を鍛へ、頑張って頑張って、今に立派な兵隊さん。忠義孝行ひとすじに、お日様出る国、神の国、この日本を守りましょう」が初めての用法で、つまり太平洋戦争以前には使えない言葉だが、戦国時代や江戸時代が舞台の時代小説にも頻繁に「頑張る」が出て来る。
 もし現代の「頑張る」意味が江戸時代にもあったのなら、作風的に見て、膨大な作品を残した小林一茶の句集に出て来なければならないはずだが、唯の一句もない(おそらく)。
 一茶繋がりで「凧」に触れる。「凧揚げ」は最初は「いかあげ」の読みだった。一茶の句に、いくつか「凧」と書いて「いかのぼり」とルビした作品がある。
「凧」を「たこ」と読むようになったのは天保八年(一八三七)に喜田川守貞が著した『守貞漫稿』によれば、江戸が始まりで、関西では、まだ「いか」と読んでいたらしい。
 初期の凧を見ると、空中でのバランスを保持するために二本の「足」が伸びており、これは確かに、烏賊に形状が似ている。蛸には全く似ていない。
 江戸では正月になると御目見以上の身分の旗本は江戸城に上がって将軍に慶賀の挨拶をするのだが、御目見以下の軽輩御家人は上がることができない。
 で、正月だから子供にせがまれて凧揚げをするのだが、これを見て御目見以上の旗本が「御目見以下の連中がイカ揚げをやっていやがる」と揶揄する。頭に来た御家人が「イカじゃねえ、タコだ!」と言い返したのが「タコ揚げ」の始まりらしいが、これを時代小説にどう書くかと言うと、これは、けっこう難しい。