「ふるさと発見」七十年乱歩と岡村繁次郎

秋永正人

 令和四年の春、名張市で江戸川乱歩の直筆書簡と乱歩生誕地碑建立に関する資料が発見された。資料は名張市本町で岡村書店を経営していた岡村繁次郎によるもので、氏は乱歩の一歳下の明治二十八年(一八九五)生まれ。乱歩が『ふるさと発見記』と『生誕碑除幕式』に明記しているとおり、乱歩を生誕の地に案内した張本人であり、江戸川乱歩生誕地碑建立の立役者である。
 発見された直筆書簡は、昭和三十六年(一九六一)乱歩が紫綬褒章を受賞した際、繁次郎氏がお祝いを送った返礼の手紙で、受賞祝賀会に触れ「軽微な脳出血で、長く立っているのが一苦労」「なるべく無責任にノンビリ暮らしたい」「あなたはお丈夫でうらやましい」と素直な感情が吐露されている。まるで気の置けない友人に対するような言葉だが、このとき二人の付き合いは十年に満たない。
 江戸川乱歩こと平井太郎は明治二十七年(一八九四)に名張市(当時の名賀郡名張町)で生まれたが、生後間もなく亀山市へ引っ越したため名張の記憶はない。太郎が探偵小説界の巨人江戸川乱歩として〝見知らぬふるさと〟名張の地を踏んだのは昭和二十七年(一九五二)、乱歩五十七歳の秋だった。恩人川崎克の息子秀二の衆議院選挙応援弁士として名張を訪れた乱歩は、繁次郎氏らの案内で自らの生家跡や父繁男の勤め先であった旧名張郡役所を訪ね、さらに近所の辻酒店店主のご母堂(太郎出産に立ち会った家主夫人の娘にあたる)辻せきさんから自身の出生や両親の思い出話を聞いたのである。
 繁次郎氏はその後も乱歩と交流を続け、乱歩生誕碑の建立発起人代表となって生誕地碑建立に奔走し昭和三十年(一九五五)十一月三日に除幕式を迎えた。時に乱歩六十歳、繁次郎氏は五十九歳だった。
 上は名張市立図書館乱歩コーナーに掲示されている除幕式の記念写真(部分)で二人ともきれいな禿頭だ。乱歩(右下)に比べて左の繁次郎氏がいやに若く見えるのは私だけだろうか。
 時は巡り今年の春、繁次郎氏が残した文書と生誕碑建立の趣意書、芳名録が再び世に出た。繁次郎氏は昭和五十一年(一九七六)に亡くなられ、岡村書店も昭和五十八年(一九八三)に廃業し所蔵の資料も散逸したと思われていたが、岡村家の親戚がその一部を保管しており、今春名張市立図書館に調査を依頼されたことから陽の目を見たのである。乱歩が名張を訪れた昭和二十七年の「ふるさと発見」からちょうど七十年目のことだった。
 以下、名張市立図書館のプレス発表から資料の主な内容を列記しておく。
① 乱歩直筆の手紙一点
② 乱歩直筆の短冊一点
③ 生誕地碑建設資金寄附者芳名録(冒頭に繁次郎氏による設立趣意書あり)
④ 私と乱歩の事かいつまみ
⑤ 江戸川乱歩生誕地記念碑建立経緯記
 定説を覆すような新発見はないが、資料は乱歩の『ふるさと発見記』や『生誕碑除幕式』の記述と整合しており、④私と乱歩の事かいつまみには繁次郎氏の視点からの乱歩との出会い、生誕碑建立、そしてその後の交流が記されている。特に昭和四年(一九二九)に妻の父、横山正四郎(前述の辻せきさんの弟にあたる)から、乱歩は横山家裏の長屋で生まれたことを聞かされ驚いたこと、この奇縁をなんとかモノにしたいが、むずかしいだろうとあきらめていたこと、昭和二十七年名張に乱歩来たるの報を聞いて奮い立ち、乱歩に会いに行こうと決意したくだりなどは、晩年寡黙であった繁次郎氏の赤裸々な告白といった趣がある。
 また繁次郎氏は触れていないが、氏の義父、横山正四郎は三重県議を経て大正四年三月の帝国議会衆議院議員選挙に立候補し激戦の末苦杯を嘗めた。この選挙で当選を果たしたのが誰あろう平井太郎の大恩人川崎克であった。乱歩の大恩人と繁次郎氏の義父は、乱歩と繁次郎氏が出会う三十七年も前にあいまみえていたのである。
 なお、あくまで繁次郎氏個人の感想だが、平井家の若い人たちは乱歩の生まれは津あたりだと思っており(実際、津藤堂藩士である平井家の本籍は津市である)、長男である平井隆太郎立教大学教授は温厚な性格で、その奥さんはすぐれて賢い方なので、うかうかしていると(乱歩は)津の生まれになってしまうところであった、とまで記している。
 さらに、名張と聞けば「名張毒ぶどう酒事件」を想起される向きもあるだろうが、乱歩も例外ではない。事件発生の四日後に繁次郎氏に事件の概要を問い合わせている。その書簡は残っていないが、乱歩への返信の下書きが残っていたので問い合わせの内容がわかるのだ。〈センシティブな内容が含まれるので割愛〉
 ところで生誕地碑は建立後二度移設されている。一度目は昭和三十四年(一九五九)九月の伊勢湾台風で甚大な被害を受けた桝田医院(当時の生誕地碑敷地所有者)の建て替えに伴い、路地の向かいの病棟脇に数メートル移設された。
 私にとっての生誕地碑とはこの場所である。高校生の頃(一九七三年)私はなんと繁次郎氏の岡村書店でアルバイトをしていたのだ。繁次郎氏は御年八十歳。息子さんに書店の経営を譲りご隠居。薄暗い部屋でいつも原書を読んでいた寡黙で偏屈なインテリ爺さんというのが私の記憶だが、生誕地碑はバイトの本の配達で幾度となく前を通ったし、推理作家協会の協賛を得て開催していたミステリー講演会「なぞがたりなばり」の担当者として有栖川有栖先生や綾辻行人先生をご案内した〝聖地〟なのだ。
  それはともかく碑は平成二十二年(二〇一〇)病棟の取り壊しに伴い、十メートルほど再度移設された。碑の裏には「うつし世はゆめ、よるの夢こそまこと」の文字が刻まれている。乱歩は名張町の印象を「東京などでは幾度建物が変わっているかわからない半世紀以上の年月を、この町では昔ながらの建物が幾つも、そのままの姿で静かに残っているのを見て、異様の感慨を禁じ得なかった」と『ふるさと発見記』に記している。
 さて以下は私の妄想である。
 繁次郎氏にとって、半世紀前の建物がそのままの姿で残っている名張は良くも悪くも時が止まったような田舎町で、嫌になるくらい慣れた町の匂いや人々の愛憎が交錯する日常(うつし世)であった。そんななか繁次郎氏は、昭和四年から二十数年間乱歩との邂逅を念じ続け、ついに昭和二十七年にそれが叶い、生誕地碑の建立へとつながり、乱歩の死去まで交流は続いた。市井の一知識人が、世に知られた人気作家の知遇を得るというのは何にも勝る喜びだったのではないかと思う。
 結局、繁次郎氏にとって同世代の乱歩との交流は 〝うつし世〟の距離を超えて、ともにまことの〝よるの夢〟に遊ぶことができる時間であり、場所だったのではないか。そこが岡村繁次郎の本当の居場所だったのだ。
 しかしまあ、もっとありていに言えばこのふたり、どことなく謎めいていて、いかがわしい秘密の匂いのする、誰もが心の奥底に隠し持つモヤモヤした闇のようなもの、そのたぐいが好きで好きでたまらなかったのだ。あなたがた二人は気の合うただのオタ仲間だったんじゃね? と、叶わぬことながら繁次郎爺さんに尋ねてみたい二〇二二年秋、乱歩の「ふるさと発見」七十年である。

参考文献
・「伊賀 暖簾ト人物」暖簾ト人物社
・「伊賀の人びと(いまとむかし)」上野出版社
・「探偵小説四十年(下)」光文社文庫版江戸川乱歩全集第二九巻
・「わが夢と真実」光文社文庫版江戸川乱歩全集第三〇巻
・「伊賀一筆」第二号 編集・発行 中相作