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忘れられない言葉

伊与原新

 私が横溝正史ミステリ大賞を受賞してデビューしたのは、二〇一〇年のことです。それから早十二年。もうダメだ、もう無理だと日々呻きながらも、よくまあ書き続けてこられたものだと思います。私が執筆に行き詰まったとき、必ず思い返すお二人からの言葉があります。この度日本推理作家協会の末席に加えていただくにあたり、自己紹介がてら、その二つの言葉をいただいたデビュー当時のことを振り返ってみたいと思います。
 小説の他にもプロフェッションをお持ちの作家、理系のバックグラウンドをお持ちの作家は大勢いらっしゃると思いますが、私もいまだにインタビューを受ける度に、初っ端の質問として「なぜ地球の研究者から小説家に転向したのですか?」と訊かれます。もしかしたら、私が専門としていた「地球惑星科学」という言葉の響きが、いたずらにロマンをかき立てるのと同時に、人間の業を描く小説の世界とのギャップを感じさせるからかもしれません。
 私はもともと一介のミステリファンで、実験の待ち時間に論文ではなくミステリ小説を読んでいるような学生でしたが、自分でそれを書いてみようなどとは考えたこともなく、研究者を目指してひたすら岩石試料と格闘しておりました。幸運にもそれが叶い、とある地方国立大学に助教として勤め始めたものの、なかなか思うような成果が出せず、自分の力のなさを思い知って、段々と研究へのモチベーションを失っていきました。
 そんなある日の帰り道、幸か不幸か思いついてしまったのが、研究のアイデアではなく、ミステリのトリックでした。それを形にした小説が思いがけず江戸川乱歩賞の最終候補に残り、気を良くして書いた次作で横溝正史ミステリ大賞をいただくことになります。何より嬉しかったのは、選考委員の一人であった綾辻行人さんが、私の作品をとくに強く推してくださったことでした。私は、一番好きなミステリ小説を問われれば必ず『十角館の殺人』と『時計館の殺人』の二作を挙げるほど、綾辻さんの大ファンなのです。
 忘れられない言葉の一つ目は、その綾辻さんに授賞式でかけていただいたものです。
「あきらめずに書いていれば、いつか日の目を見るよ」
 以来、もうあきらめようと思うことは何度もありましたが、その度に、「でも、あのとき綾辻さんにああ言われたしな。もうちょっとだけ頑張ってみるか」と思い直し、また机に向かっています。綾辻さんご自身にしてみれば、何気ないひと言に過ぎず、当然ご記憶にもないでしょう。ですが、敬愛する人からのひと言には、それをかけられた当人に何年、何十年と影響を及ぼす、呪術的ともいえる力があるのです。
 デビュー作を担当してくださった編集者は、角川書店のKさんでした。数々の人気作を世に放っているヒットメーカーです。初対面で膨大な付箋がついた原稿を突き返してくるその迫力に初めは圧倒されましたが、Kさんの指摘やアイデアはどれもまさに目から鱗。科学の世界しか知らなかった私は、初めて親鳥に出会った雛のようにKさんの言葉を聞き漏らすまいとし、エンタメ小説のイロハを学びました。
 Kさんと取り組んだ二作目の執筆にはたいへん苦しみました。毎月掲載という形で連作短編を書いたのですが、一カ月に一つミステリのアイデアをひねり出さなければならないという重圧が辛くてたまらなかったのです。それがどうにか一段落した頃のことだったと思います。「こんなに苦しいなら、この先職業作家などとてもやっていけそうにありません」と弱音を吐く僕に、Kさんは「うーん」と眼鏡を持ち上げて、こうおっしゃいました。
「伊与原さんはきっと、十年後も泣きごとを言いながら書き続けていると思いますよ」
 忘れられない言葉の二つ目です。これを聞いたときも、心が静かに震えました。売れようが売れまいが、あなたは書き続ける価値のある小説を書いている、と言われたような気がしたのです。その予言どおり、私は十二年後の今も本当に泣きごとを言いながら書き続けているわけですから、Kさん恐るべし、と言う他ありません。
 科学の世界を逃げ出して小説の世界へ来たつもりが、結局は科学から離れられず、最近はその両方に片脚ずつ突っ込んだような物語ばかり書いています。ですが今も私の中で、ミステリに対する憧れは色褪せることがありません。いつかは協会員の名に恥じぬミステリ作品をと思っておりますので、今後ともご指導ご鞭撻のほど何卒よろしくお願い申し上げます。