リレー・エッセイ「翻訳の行間から」

電子機器と翻訳

田辺千幸

 家庭用のワープロが出回るようになったのは、翻訳の勉強をはじめたころでした。画面が小さくて五行くらいしか見えないとか、印刷はインクリボンですぐに薄くなるとか、いろいろと不都合はありましたが、それでも手書きよりは断然楽。何度書き直しても原稿が汚くならないんですから。消しゴムのカスも出ませんしね。いまはもちろんパソコンです。檸檬とか憂鬱とか、辞書を見なくては書けない字も楽々変換してくれるし、英語の綴りが間違っているときは教えてくれる。例えばインターネットエクスプローラーのように長ったらしくて打ちにくい言葉は、なにか適当な読みをつけて登録しておけば、次からは簡単に入力もできる。なんて素晴らしいんでしょう! そのうえ、"彼から血痕を申しこまれ"たり、"銃口なたたずまいの館"になったりして、疲れた頭を癒してくれることもあります。
 けれどなによりありがたいのは、インターネットが発達して調べものが格段に楽になったことです。翻訳という仕事に調べものは欠かせません。事実関係の確認はもちろんですが、地名(日本でもそうですけれど、地名って読みにくいものが多いですよね)、その国ではだれもが知っているお菓子や人気テレビ番組の司会者の名前、流行しているお店といった固有名詞が出てきたときには、発音を確認し、必要と判断すれば訳注を入れたり、それとなく訳文に紛れこませたりします。知らない英単語を調べ、訳語がふさわしいかどうかを確認するという作業まで入れれば、かなりの時間を調べものに割いていることになります。昔はすべてを本に頼らなければならなかったので、ちょっとした専門用語のために一冊辞書を買ったり(そのために大手の本屋まで出かけていき、結局、そのなかの単語をひとつかふたつしか使わなかったりする)、図書館にこもったりしたものでした。それがいまではクリックひとつ……とまではいかないにしろ、家にいながらにして調べがつくようになったんですから、なんともありがたい時代です。
 昔、あるノンフィクションの下訳をしたときは大変な思いをしました。他の本からの引用が数行あったのです。自分で訳すこともできたのですが、その本には既訳がありました。下訳ですから、できるかぎりの情報を集めなくてはならない。既訳があるならやっぱりそれを使いたい。というわけで国会図書館に出かけ(ほかの図書館はその本を置いていませんでした)五○○ページほどの本から三行あまりのその文章を探し出すという、いま思えば気の遠くなるような作業をしました。いまなら訳文そのものを探し出すことは無理だとしても、原書のどの章にあるかくらいはインターネットであたりをつけられるでしょうから、ずっと楽に探すことができるはずです。
 そうやってパソコンにどっぷりつかっている毎日ですが、いいことばかりとも言えません。使わない能力はどんどん退化していくので、書かないから漢字はますます書けなくなり、汚い字はいっそう汚くなっていきます。さらに、パソコンは決定的に目に悪い。乱視(ということにしておいてください)がどんどん進んでいき、近頃では茶碗のなかのごはんが白いひとつの塊に見えるようになりました。
 もうひとつ、忘れてはならない電子機器に電子書籍リーダーがあります。手にいれたのは最近になってからですが、読みたいと思った直後には手元に届くのですから、本好き人間にはたまりません。おかげで、ついつい買いすぎてしまいます。読むペースが追いつかず、リーダーのなかに溜まっていく未読本の山……これはキンドルをもじって、積読ならぬ、積ドルと呼ばれているそうです。
 いまや仕事に欠かせないものとなった電子機器。おかげで便利になり、翻訳そのものに割ける時間も増えたはずなのに、仕事のペースはいったいなぜ上がらないのか。その理由については、おいおい検証するといたしましょう。

 さて次は、同門の友人、寺尾まち子さんにお願いします。