追悼

海の作家に敬礼

新保博久

 高橋泰邦氏はむかし、当時第一線の新鋭作家が集っていた他殺クラブに在籍していたが、このクラブ員で日本推理作家協会の現会員は今や三好徹氏しか残ってないのではないか。高橋氏と本当に一面識しかない私が追悼を仰せつかるのも歳月のなせるところだろう。その一面識というのは、内藤陳会長ひきいる日本冒険小説協会の、非公認の分科会「海洋部」(会合二、三回で潰えた)のゲストに氏をお招びしたときだ。氏の長篇『黒潮の偽証』(光文社文庫)に自分で書いた解説に記したところによれば、一九八三年の春である。ということは氏はまだ還暦前だったはずで、穏やかなうちにも確固たる芯を感じさせる、こんな格好いい中老紳士になりたいと憧れたのに、その年齢を越えても単なるジジムサーにしかなれなかった我が身のことは考えないようにしたい。記憶も怪しくなって、かつて自ら書いたこの文庫解説が頼りだ。
 氏は海洋ミステリ・SF、冒険小説にほとんど孤軍奮闘してきた第一人者だが、冒険小説協会の会員ではなかった。誰も声を掛けなかったのかも知れない。冒険小説協会といっても、ヒギンズ、バグリイ、マクリーン、カッスラーといった冒険スリラーが人気で、氏の訳したホーンブロワー、海の勇士ボライソー・シリーズなどの純粋冒険小説まで好むのは少数派だった。私とてそれほど詳しいわけではないが、生来ヘソ曲りで少数派に与するのを是とする身は嬉々として海洋部に参加したのだった。私のことはどうでもいいな。
 外国航路の船長を父にもつ高橋氏は、船と海、そして英語に関心を懐いたが、近視になったため船乗りになる夢は諦め、英米の海洋文学翻訳家を志し、その第一歩として海洋ラジオドラマや小説に着手したという。創作が目的でなく、翻訳家になる手段だったというのは珍しい。念願の翻訳家になった後も創作との両輪駆動で、海洋部会のあった年末に刊行された『南溟の砲煙』、そして『南溟に吼える』(一九八六年)と続くホーンブロワーのパスティシュは氏ならではの真面目な遊びとして特に印象深い。巻頭に各海戦の船団の動きが図版で示され、C・S・フォレスターの本家作品より分りやすく面白いくらいであった。早川書房の菅野編集長がいずれシリーズ番外篇として自社の文庫に入れたいと言っていたものだが、果されないまま二十年後には菅野氏が早世してしまった。
 それらのことは海洋冒険小説の愛読者にしか興味がないかも知れない。しかし海洋小説以外でも『毒入りチョコレート事件』、『うまい犯罪、しゃれた殺人』(共訳)、『ローズマリーの赤ちゃん』、『金曜日ラビは寝坊した』等々、本格推理、異色短篇、モダンホラーそれぞれの里程標となる作品も手がけ、翻訳ミステリファンで氏の訳業の恩恵を蒙らなかった者はないだろう。氏の創作は現在、電子書籍でごく一部の作品が読めるだけだが(洞爺丸事故を扱ったノンフィクション・ノヴェルの代表作『偽りの晴れ間』や、ライトノベルの先駆とも言うべき痛快作『軍艦泥棒』がなぜ手に入らない)、少なくとも訳書は今後も永く読み継がれてゆくに違いない。