内田康夫さんとのこと
内田康夫さんとは同じ業界にいながら、およそミステリに関する話はしたことがなく、もっぱら囲碁を介してのおつきあいだった。
初めてお会いしたのは「週刊ポスト」を介してだった。かつて「ポスト」は「文壇囲碁名人戦」を主宰していて、デビューの早かった僕は昭和五十五年の第13期から参加していたのだが、内田さんも六十二年の第26期(文壇名人戦は年二回行なわれていた)から参加する運びとなった。そしてその初参加に先だって「ポスト」誌上で内田さんと女流プロの新海洋子三段との三子局が行なわれ、その観戦記を僕が担当することになったのである。プロに三子というのも凄いが、内容的にも終始黒が優勢を堅持し、最後の最後で内田さんに「強いがゆえのミス」が出て惜しくも敗れたが、とにかくその強さに僕は眼を見張った。現に内田さんはその直後、文壇名人戦に初参加にして優勝を飾っている。
その後、文壇名人戦が消滅するまで、何局お手合わせしただろうか。この時期、内田さんははっきり僕より強かった。
内田さんは僕と同じ東洋大学なのだが、囲碁研とは関わりがなかったようで、それでどうしてそこまで強くなることができたのか、迂闊にも改まって囲碁歴をお聞きしたことがなかったのを今にして残念に思う。
ともあれその後、新井素子さんの尽力で「推理作家協会囲碁同好会」が復活し、少し遅れて三好徹さんが発起人となって「文人碁会」が再興されて、内田さんもその両者に顔を出されるようになった。こうしてしばらく途絶えていた内田さんとのお手合わせの機会が以前にもまして多くなり、その一局一局が懐かしいが、とりわけ僕が初優勝した第四期(だったかな?)文人名人戦の決勝戦での死闘は今も記憶に生々しい。
ちなみに内田さんは推協名人と文人名人に各一回就かれている。第一期文人名人に就かれたときに思わず出た「これだから碁はやめられない」という喜色満面のお言葉は印象的だった。
というわけで、内田さんとは果たして通算何局お手合わせしただろうか。繰り返しになるけれども、同じ業界にいながらおよそミステリに関する話題は爪の先ほども交わした憶えがなく、もっぱら囲碁を介してだけのおつきあいだったが、それでも顔を向きあわせていた時間だけは――いや、同じ思考空間を共有した時間ということでも、けっこうなものではないかと思う。
それだけにがっぷり組みあえる好敵手を失ったのは残念この上ない。せめてもう一局、心ゆくまで切った張ったをやりあいたかったなあ。いや、そのうちいつか、
いつかまた碁を打ちましょう、内田さん。