サヨナラ、軽井沢のセンセ
軽井沢の「浅見光彦記念館」に設けられた献花台は、花で一杯だった。読者を愛し、読者に愛された作家だったことを、あらためて痛感した。
初めて内田さんにお目にかかったのは、オリジナル著書が三十冊に到達したのを記念してのパーティーだった、はずである。その三十冊目となる『美濃路殺人事件』が刊行されたのは一九八七年四月だから、出版業界で禄を食むようになってからまだ一年しか経っていない頃だ。当時仕事をいただいていた編集者に、なぜか内田さんの担当が多かった。なんとも幸いな偶然だったが、以来、亡くなられるまでお付き合いいただいた。
その翌年だったろうか、印象深い出来事があった。とあるホテルのティールームで、夜を徹して書き上げたばかりの長編の、ワープロのプリントアウトを手にした内田さんは、ラストを読み返すと、用紙の余白に万年筆で加筆しはじめたのである。それも一行や二行ではない。その時、「やっぱり作家になる人は違うなあ」と思ったものだ。
一九九三年に設立された「浅見光彦倶楽部」(今は「浅見光彦 友の会」)の会員が、またたくまに一万人を突破したのには驚いたが、翌年夏、軽井沢の塩沢湖の近くにクラブハウスがオープンしたのにはもっと驚かされた。作家のファンクラブは別に珍しくなかったけれど、ここまで?
以来、何度軽井沢を訪れたことだろうか。クラブハウスができなかったら、歴史あるリゾート地を訪れる機会など、まずなかっただろう。もっとも、観光客で賑わう旧軽井沢銀座には、今もまったく縁はないけれど。
ほどなくして、JR東日本とタイアップして、「ミステリアス信州」というミステリー・ツアーがスタートした。このあたりは広告業界での経験が生かされたのだろうか。別所温泉や野沢温泉、渋温泉など、この企画がなかったら、いつ訪れることができただろうか……いや、温泉ばかりが旅の目的地ではなかったけれど、信濃の国をずいぶんと堪能した。県歌「信濃の国」もいつしか覚えてしまったほどだ。さらには天河神社など、ミステリー・ツアーに便乗して観光旅行したものである。
愛媛県を舞台にした『しまなみ幻想』の刊行時には、松山市での記念のトークショーに引っ張り出され、司会めいたことをした。こんな役目は柄に合わないと思ったのに、ギャラに目がくらんだのか、「北区内田康夫ミステリー文学賞」など、声がかかると引き受けてしまったのだから節操がない。
そういえば、横浜港の大桟橋で、「飛鳥」での世界一周の旅の見送り&出迎えをした時、あまりに待ち時間が長いのでビールを飲み過ぎ、呆れられたこともあった。だから、横浜に来たメインの目的が、ラーメン屋巡りだなんてとても口にはできなかったものである。
内田さんはお酒を嗜まなかった。なので、我が杯だけになみなみと酒を注ぎ、惜別の辞を捧げたい。