松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント探訪記 第86回
昭和30年代初めと平成開幕時代ふたつの時代のミステリをリードしたふたつの〝才能〟の展示会
『謎は〈館〉で待っているー綾辻行人の世界』 2019年3月20日~7月27日 ミステリー文学資料館
『仁木悦子の肖像』 2019年4月20日~9月23日 世田谷文学館

ミステリコンシェルジュ 松坂健

 池袋・要町のミステリー文学資料館で開催中(2019年7月27日まで)の「謎は〈館〉で待っている―綾辻行人の世界展」を見に行っての帰り、この展示会の監修者である新保博久さんに「行ってきましたよ~」とメールで報告したら、「この資料館では空前の○○〇人の来場者数なんです。乱歩展も三大奇書(黒死館・ドグマグ・供物)展もかなわない」とすぐに返事が到来。
 この○○〇に実際の数字を入れるのは野暮というものだが、今さらながらに綾辻作品の人気のすそ野が広いことに感心する。
 今回の展示は綾辻さんの第22回ミステリー文学大賞の受賞を記念してのものだが、若手新本格の旗手といわれながら、デビューが1987年。いつの間にか軽く三十年をこえる作家歴、押しも押されぬ大家の領域に入っているんだ、と処女作からほぼ同時代で読み続けている者としては新鮮な驚きのある展示会でもあった。
 展示品の中には、乱歩賞応募作『十角館の殺人』の手書き初稿原稿などプロになる以前からの原稿がいくつもあって、ミステリーへの変わらぬ愛情の片鱗を見ることができる。もちろん、京大ミステリ研のメモリアル写真などもあり、そのミステリ愛が生涯を貫く純粋なものであることも感じられる。
 会場配布のミステリー文学資料館ニュース第38号所載の佳多山大地氏のインタビュー記事(ジャーロ誌からの転載)の中で、綾辻さんは「単なる〝作家〟ではなく〝推理作家〟になりたいと思った。これは明確でしたね」と述べておられる。乱歩。ルブラン、クリスティ、クイーンに惑溺した少年の夢は実現され、今も生き生きと息づいている。
 その純度の高いミステリ愛が作品に結実していて、それが今も若い読者を惹きつけている要因なのではないか、と思う。
 佳多山さんの同じ記事の中に、当初は新本格と呼ばれることに抵抗がなかったわけではないが、島田荘司さんが平成に入ってすぐ『本格ミステリー宣言』を出して、「自分もこういうミステリーが書きたかったんだ、という同世代の才能が次々に登場して、大きなうねりができていった」と自分の立ち位置を自ら解説している。たしかに、『十角館』の1987年から1990年代にかけて、ミステリ界には大きな転回点があったと思う。
 ひとりの才能が、同時代の他の才能を呼び集め、それが期せずして潮流となり、新たな伝統を作り出していく。伝統と個人の才能の干渉が豊かに実を結ばせたということだろう。
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 昔からあった「形式」がいつの間にか古びて、誰にも顧みられなくなった時、一個の才能が現れて、そこに新たな命を吹き込んで再生させ、それを新しき伝統に仕上げていく。文芸にもそういうプロセスがありえて、乱歩はそういう新しき伝統を作り出せる才能を「ひとりの芭蕉」と名付けた。
 戦後の探偵小説文壇を彩った「探偵小説は文学たりえるか」論争への乱歩さんが用意した有名な提言「ひとりの芭蕉の問題」だ。
 探偵小説の形式を守りながら、そこに比類なき文学性を与える。それには俗謡でしかなかった俳諧を一個の芸術まで昇華させた芭蕉のような天才の存在が必要だ、探偵小説界にもひとりの芭蕉が出現しないものか、と乱歩さんは問いかけたわけである。
 日本のミステリー小説史を論じる場合、このひとりの芭蕉は、リアリズム重視の松本清張さんだったという説が強い。
 昭和30年代初期、「探偵小説」があまりに人工的なトリックなどにこだわるあまり、「お化け屋敷」になってしまったと批判したのが清張さんで、普通の人たちが思いがけなく犯してしまう犯罪を日常レベルのディテールを大事にしながら解いていく作風は、文学まで高まったかどうかは議論の余地があると思うが、とにもかくにもミステリに新たな地平を築いたのは事実だ。
 具体的には、1958年(昭和33年)の『点と線』『ゼロの焦点』がベストセラーになったのが、戦後ミステリの大転換を起こさせたわけだが、それじゃあ、清張さんだけがひとりの芭蕉だったかというと、そうでもないとする研究家もいる。
 ミステリ研究家、アンソロジストの日下三蔵さんは、清張さんのリアリズム路線が受ける先駆として仁木悦子さんの登場をひとつのメルクマールだったと語る。
 仁木悦子さんは昭和32年(1957年)ご存知『猫は知っていた』で第3回の江戸川乱歩賞を受賞してデビューした女流ミステリ作家。乱歩賞が小説コンテストになったのが、この回からだから、仁木さんは実質的に乱歩賞作家第一号だ。乱歩賞応募前にすでに本名大井三重子の名で童話を出版していたが、この『猫』出版のとき実に29歳。若い娘さんで、しかも4歳で患った胸椎カリエスで車椅子生活を余儀なくされていたということもあって、文壇的にも大きな話題となった。
 しかも、その作風は平明でユーモアにみち、どこにでもいそうな人々の間を、探偵役の仁木雄太郎・悦子の兄妹が駆け回り、犯罪の真相にたどり着く。
 そこで描かれたのは昭和31年(1956年)のあまりに有名な経済白書の見出し、「もはや戦後ではない」に象徴される豊かになりはじめた家庭や社会の姿だった。清張さんの言う「お化け屋敷」ではなかった。
 そんな中での若いお嬢さんのフレッシュなミステリ。猫をモチーフにするかわいらしいイメージ、仁木兄妹というキャラクターの親しみやすさもあって、ベストセラーになった。清張さんの業績を軽く考えるわけではないが、お化け屋敷からの解放は清張だけでなく、すでにこのあたりから始まっていた。
 そんな仁木悦子さんの業績をまとめた展示会が世田谷文学館の「仁木悦子の肖像」展。
 仁木さんの著作物はもちろん、用意周到に考え抜かれた本格推理『林の中の家』のダイヤグラム式創作ノートなどの自筆資料も展示されている。
 一時、同じ病院にいた寺山修司氏との交流を物語る往復書簡も展示されたりしている。戦争で兄を失った者たちの悲しみをみんなで共有しようという文集『妹たちのかがり火』を編んだり、『苦界浄土』の石牟礼道子さんとのやりとりなど、展示会監修の任にあたった日下さんの目くばせが効いている。
 ミステリ―文学資料館の綾辻展と世田谷文学館の仁木展。期せずして、ミステリの地平を切り開いた昭和30年代と昭和末から平成にかけての二人の「才能」を見ることができた。どちらもコンパクトな会場だが、それだけに愛おしい展覧会として記憶に残るものになった。