中井英夫の分骨に思う
大越翼
晩秋の山口駅に降り立った私は、正福寺に赴いた。その墓地の一角に、中井家の墓があるからで、今日はそこに納められている中井英夫の分骨に立ち会うのだ。本来、母が立ち会うべきなのだが、高齢で施設にいる以上、それは無理だった。
私の母方の祖母はテルと言い、中井猛之進の妹だった。中井英夫の叔母にあたる。テルは母が結婚する前に亡くなっていたから、私は写真でしか顔を知らないが、色白で美しく、理知的な顔立ちの女性だ。母にとって、中井英夫は従兄弟にあたるわけで、若い頃国立科学博物館館長であった伯父猛之進を訪ねては、ご馳走になったと聞いたことがある。時に英夫と一緒になることもあり、上野恩賜公園を駅に向かって歩きながら、いろいろなことを話したという。話し振りから、英夫がとても魅力的な若者として母の眼に映っていたことは間違いなかった。
「中井英夫さんの助手をしておられた本多正一さんが、分骨をしたいと言われておりますが、どうなさいますか」と正福寺住職から電話をいただいたのは、青葉が目に眩しい頃だったろうか。本多氏の名前は前から聞いていたし、分骨の話は以前耳にしたことがあったが立ち消えになっていた。その頃私はメキシコ国立自治大学付属文献学研究所マヤ研究センターの研究員としてマヤ社会の歴史学的研究をしていたから、これに関わることはなかったし、何より両親が中井英夫と密接に交わっており、私は時にその話を電話で聞くのみだった。二〇一四年暮れに父が亡くなり、母をメキシコに引き取ってからは、その話は出なかったと思う。二〇一六年にメキシコから帰国し、京都の大学に奉職してからは、正福寺に対する毎年の供養料の支払いは母に代わって私が行っていた。だから、多少の縁は感じていたものの、中井家の墓がそこにあるという認識以上のものではなかった。
正福寺からの電話は、そんな私を突然母方の先祖、そしてその一人としての中井英夫の存在を考えなければならないという、思いもしなかった立場に置いた。そもそも「分骨」がどういうことなのかも、現実味を帯びて考えることすらできなかった。想像外のことだったと言っていい。ともあれ早速母にこの話をしてどうするかを尋ねたら、難色を示した。関係者が亡くなった後の供養を、どなたがしてくださるのかと言うのだ。もっともなことで、それは私も考えた。だから、住職にその旨を伝え、お断りしたのだ。いったん一族の墓に納まっているものをまた取り出してはという、土俗的な感覚もどこかにあったかもしれない。
しかし、本多さんは諦めなかった。中井英夫の代表作『新装版 虚無への供物』とともに、英夫の遺言書、中井家の戸籍の写し、中井猛之進の来歴、母と服部家の方(母の祖母が出た家)とのやりとりの写し、英夫の友人であり歌人、そして今回分骨された遺骨が納められた法昌寺の住職でもある福島泰樹氏の分骨を願う手紙の写し、さらには本多さんの著作やそのご母堂のことについての出版物などが送られてきた。それらに目を通して、これまでほとんど知ることの無かった本多さんのことを知り、彼の中井英夫にかける想いを再認識させられたし、その文章や写真に見る彼の感性にも心を打たれた。さらに、没後二十七年であるにも関わらずなお根強いファンがいらっしゃることも、また中井英夫が『短歌研究』、『短歌』の編集長として、日本を代表する歌人たちを世に送り出したことも改めて知った。福島さんの、中井英夫へのお気持ちも、重く受け止めた。
研究者として、私は多少の文章を書く。それは文学畑とは異なるものだが、それでも私が書いたものを読んで、面白いと言ってくださる方はいる。書き手としてはこれが何より嬉しいものだ。まして、著者の没後もなお読んでくださる大勢の方々がいらっしゃるのであれば―。そこに思い至った時に、私は「公人」としての中井英夫の存在を思わざるを得なかった。それは私達親族が直接は知らない世界であって、しかし英夫にとってはそれが人生そのものであり続けた。「東京人」であることを誇りにしていた彼を、またその古巣、いや彼を慕ってくださる方々の元へお返しすることは大切なことではないのか。
母にそのことを話したが、もう意見を聞くのではなく、そういたしますと伝えた。特に反対はしなかった。早速正福寺にその旨を伝え、まもなく本多さんから嬉しそうな電話をいただいた。
分骨を終えて、英夫の父中井猛之進が命名し、国の天然記念物に指定されているカイヅカイブキの大木の前で参加された方々と記念写真を撮った。白い布に包まれた新しい骨壷を見たときに、ふと涙が溢れてきた。なぜなのか、自分でもよく分からない。しかし、母方の先祖が眠るこのお墓や、祖父母や伯父達が眠る小郡八方原の墓を供養しにまた戻ろうと思い定めた。そこには私の血のもう一つの源流があるからで、日本に帰ってきた今それを大切にしていきたいのだ。
正福寺のお墓には、私の母方の曽祖父中井誠太郎の戒名が刻まれ、そこにその妻と長男猛之進夫妻、そして猛之進の三人の子供達が眠っている。墓室を覆う石には、笹竜胆の紋が刻まれていた。
【追記】
分骨が行われたのは、二〇二〇年十一月二十八日のことで、本多正一さんをはじめ、萩元幸治さん、沢田安史さん、浅井仁志さん、竹上晶さんが参会された。皆さんはこれまでも中井英夫の法事に参列くださっていたという。とりわけ熱心な読者である竹上さんには墓室に半身を入れて骨壷を取りあげていただき、頭の下がる思いだった。この場を借りて皆様に心より御礼を申し上げたい。
私はといえば、父愼一、母純子の長男として一九五六年兵庫県神戸市で生まれ、一九七一年からは東京に移り住んだ。中井英夫の家にも、母に連れられて何度か行ったことがある。学習院大学文学部史学科を卒業後、一九八〇年からメキシコに留学し、九三年にメキシコ国立自治大学大学院で博士号(人類学)を取得したあと、同大学付属文献学研究所マヤ研究センター研究員として、マヤ社会の歴史学研究を二十七年間行ってきた。途中二〇〇六年から六年間上智大学外国学部イスパニア語学科教授として教鞭をとり、二〇一六年から京都外国語大学外国語学部スペイン語学科教授、二〇一八年からは同大学ラテンアメリカ研究所所長も兼務して現在に至っている。