翻訳家の大切な一冊

地の果てまで届いたロシア文学

加賀山卓朗

 四国のかなりの田舎で育った。大江健三郎氏の内子町よりもっと田舎である。そのころわが家にあった黒電話は、ハンドルをまわして村の交換台につながるものだったが、あれは幻だったのだろうか。テレビの民放は二局しかなく、国民的人気ドラマの『赤い疑惑』でさえ一週間遅れの放送だった(別途アンテナを立てれば大分テレビが入って、リアルタイムで見られた)。
 そういう土地なので、中学校から松山市に出るまで身のまわりに娯楽らしい娯楽はなく、親が買いこんだ図鑑や全集をしょっちゅう眺めていた。子供向けの世界文学全集はたしか揃いの黄色っぽい表紙で、開けると新品の紙のいいにおいがしたが、あれはどこの出版社だったのかな。音楽全集は第一巻が『ピーターと狼』で、第二巻が『動物の謝肉祭』、第三巻からナレーションがなかったので、何かの手ちがいではないかと思った。
 そんななかどうやって知ったのか、秋田書店の『世界の名作推理全集』だけは地元の本屋(ならぬ雑貨屋)に取り寄せてもらって、毎回愉しみに読んでいた。ご多分にもれず『アクロイド殺害事件』には驚愕したが、『グリーン家殺人事件』は犯人が途中でわかってしまい、こんなこともあるのかと思ったのをいまでも憶えている。この全集にはアイリッシュやシムノンも入っていて、ラインナップはやや年長者向きだったかもしれない。
 なかなか〝大切な一冊〟に行き着きません。しかし忘れもしない高校三年のとき、松山から田舎に帰省して、これは大人向けの河出書房版世界文学全集のなかから、なぜか手を引かれたようにドストエフスキーの『罪と罰』を取って読んでみた(河出版の著者名表記は〝ドストエーフスキイ〟)。その衝撃たるや、とてもひと言では言い表せない。
 小説の結構はシンプルな倒叙型ミステリーだが、何かひどく生々しい人間の根源的なものに触れてしまったというか、見てはいけないものを見てしまったというか。大地にひざまずいて接吻するなんて発想、ふつう出てきます? とにかく頭をぶん殴られたような、雷に打たれたような気持ちで、居ても立ってもいられなくなり、そこから大学一年にかけて米川正夫訳の『ドストエーフスキイ全集』(河出書房新社)を片っ端から読んでいった。全集好きは親からの遺伝かもしれない。これまでの人生で文字どおり寝食を忘れて読んだのは、ドストエフスキーと筒井康隆だけである。
 そのほか大学後半から社会人にかけては、ローレンス・ブロックの田口俊樹氏(わが翻訳の師匠)や、ロバート・B・パーカー、ディック・フランシスの菊池光氏(心の師匠)、ジョン・ル・カレの村上博基氏(心の師匠)の翻訳も大量に読んだけれど、誰の日本語をいちばん多く読んでいるかといえば、まちがいなく米川正夫氏だろうと思う。遅れて来た中二病の病態はすさまじく、鉛筆で線を引いたりコメントを書きこんだりしながら全集を読破しましたから。
 心残りは、この歳になって内容の大部分を忘れてしまっていることと、よりにもよって、愛してやまなかった『カラマーゾフの兄弟』の上下二巻がどこかへ消えてしまったこと。いずれも痛恨に堪えないが、カラマーゾフは進んで手放すわけがないので、いつか引越しや大掃除のときなどにひょっこり出てくるのではないかと期待している。

◆自己紹介代わりの三冊
S・A・コスビー『頰に哀しみを刻め』(ハーパーコリンズ・ジャパン)
 今後も翻訳者としての代表作になると思います。

マーティン・エドワーズ『処刑台広場の女』(早川書房)
 自分の訳書ではここ数年でいちばんのおもしろさでした。

ジョン・ル・カレ『スパイはいまも謀略の地に』(早川書房)
 縁あって巨匠とは長いつき合いになりました。