ライ麦畑でつかまって、あるいは、コート・イン・ザ・ライ
高校1年生のときなので、もう40年以上も前の話です。ぼくは気仙沼高校という男子高に入学し、英陸軍特殊空挺部隊(SAS)の選抜訓練並みに過酷な応援歌練習に耐え忍んでいました。〝新兵〟は、入学式から1週間、昼休みと放課後に屋上に整列させられて、応援歌を10曲ばかり覚えさせられる――というのが、母校のしきたりでした。とんがっていた同級生数人は応援団員の〝愛の鞭〟を食らい、入学初日の練習で病院送り(MEDEVAC)となりました。応援団はほぼ全員が空手部員で、インターハイ団体戦で優勝だか準優勝した強者たちです。「いいがおめだず、おれだずに会ったら〝ウスッ〟って挨拶すろよ!どこで会ってもだぞ。すねば、なぐっつぉ!」(「いいかおまえら、おれらに会ったら〝ウスッ〟って挨拶しろよ! どこで会ってもだぞ。しねえと殴るからな!」[拙訳])――「ウスッ!」。で、後日、ぼくは文信堂という本屋で応援団員を見かけ、「ウスッ!」とでかい声で挨拶しました。スコーンと殴られました。そのお方はエロ本か何かを立ち読みしておられ……。
そんな状況なので、あまり勉強している暇はありませんでしたが、好きな英語だけは予習して授業に臨んでいました。やっと応援歌練習も終わったころ、英語の先生にスカウトされ、語学部に入りました。ぼくは中学校の野球部で体育会系のノリに懲りていたので、高校入学後、早々に将棋部に入っていました――そこもがらが悪くてまいりました――が、帰宅部の別名どおり、たいした活動はしないので、掛け持ちすることにしました。
語学部の活動は読書会みたいな感じでした。4、5人の部員で J. D. Salinger の The Catcher in the Rye (邦題は『ライ麦畑でつかまえて』あるいは『キャッチャー・イン・ザ・ライ』)を読んでいきます。思い返せば、なんて無謀なチョイス。原書なんか1冊も読んだこともない1年坊主が、いきなりサリンジャー……。メンバーで分担を決めて、各自訳してきて発表するのですが、ぜんぜん進みません。使われている単語はそんな難しくないのに、何をいってるのか、さっぱりわかりません。スラングだらけですからね。
あるとき、ウェンディー・ジョーンズ先生が、1日だけ語学部に顔を出してくれることになりました。ジョーンズ先生は今日でいうALT(外国語指導助手)で、たまに英語の授業に参加して本場の発音を聞かせてくれる人です。ダイアナ妃に似た麗しいイギリス人女性でした。むさくるしい男子高にあんな高貴なお人を派遣するイギリスはどうかしてると思いました。
ある日、あしたの英語の授業にジョーンズ先生が来るから、おまえ、何か質問を考えてこいと日本人の英語の先生にいわれ(←やらせじゃん)、一晩考えて、こんなような質問を投げかけました――
I heard that Prince Charles is very popular, especially among young women in Britain. Do you like him? (イギリスのチャールズ皇太子は女の子に人気だと聞きましたが、先生は好きですか?[拙訳])思い返せば、なんて大胆なクエスチョン。ご存じかとは思いますが、数年後には皇太子の不倫問題が発覚し、ジョーンズ先生に似たダイアナ妃は離婚し、パパラッチに追い掛け回されて交通事故死します。
先生はふっと笑みを漏らして答えてくれました――
Well, I like him. He works hard and professionally. But I'm not sure as a partner. (まあ、好きですよ。仕事熱心だし。でも、パートナーとしてはどうかしら。[拙訳])お嫌いってことで。
その数日後、例の文信堂前でジョーンズ先生とばったり会いました。ぼくは口から飛び出そうな心臓をどうにか飲み込んで先生に声をかけ、〝次の授業、楽しみにしてます〟なんて、滝汗をかきながらいって別れました。つまらないことをいってしまったと死ぬほど後悔しました。
で、ジョーンズ先生が来てくれた日の語学部の部活がどんなだったか、覚えて――いたくありません。yeah を yay のように発音して大笑いされたことは秘密です。
結局、The Catcher in the Rye を読み終えたのは、一浪後、大学に入ってからでした。ある講義で、マーク・チャップマンという男がニューヨークの高級集合住宅ダコタハウスでジョン・レノンを射殺したとき、同書のペーパーバックを持っていたことを知り、読み直してみようと思ったのです。goxdxmn (「いまいましい」)だの moron (「軽度の精神遅滞者」)だの faggy (「ホモの」)だの phony (「いんちき[の]」)だの lousy (「シラミのたかっている」)だの(訳語はすべて『研究社新大英和辞典』)、そんな素敵な単語がばんばん出てきて、これが自由の国かと感心しましたが、どうしてこの本を読んでジョン・レノンを殺そうなんて気になるのか、よくわかりませんでした。裕福な家の子が思春期にとち狂って何度目かの退学処分を喰らい、家に帰るに帰れず、何をやってもげんなりし、『フランダースの犬』のネロのようにぶっ倒れそうになるものの、どうにか家に帰る――そんなストーリーです。どこを探したら、殺意が見つかるの?
でも、さまざまなドラマの舞台になった文信堂が、十数年前の津波より先に時代の波に呑まれてなくなり、ぼくはぼくで、〝次の授業、楽しみにしてます〟式のことも平気でいえるようになったいま、The Catcher in the Rye を読み返して、〝インチキ〟ワールドの住人になっている自分に驚きました。村上春樹さんが翻訳する気になったのも、わかるような気がします。
〝シラミのたかった〟 エッセイを書いてしまいました。この汚名は、近いうちにソフトボール大会でそそぎたいです。
◆自己紹介に代わる訳書3作
・エリオット・アッカーマン、ジェイムズ・スタヴリディス著
『2054 合衆国崩壊』
(二見書房)
・スティーヴン・コンコリー著
『救出』(上下)
(扶桑社)
・マイケル・マン、メグ・ガーディナー著
『ヒート2』
(ハーパーコンリズ・ジャパン)