翻訳家の覚悟
衝撃を受けるほどの一冊との出会いは、買ったときや読んだときの状況までもしっかりと覚えているものだ。その本は仙台の書店で平積みにされているのを見て思わず手に取って購入し、そのあと旅先の宿で読んだことを覚えている。その一冊とはディック・フランシスの『利腕』(菊池光訳/ハヤカワ・ミステリ文庫)だ。
ちょうど文庫化されたタイミングで、奥付によると一九八五年八月とある。読み終えたときの衝撃は今も覚えている。これまで読んだことのないタイプの作品に出会ったという感覚だった。この時点でフランシスの競馬シリーズは二十作近くが邦訳されていたので、こんなおもしろい作品がまだまだ読めるのだと、まさに宝の山を見つけたような思いだった。
この作品は、わたしが翻訳家をめざすきっかけになった作品と言えるかもしれない。〝かもしれない〟というのは、当時のわたしはまだ英語すら得意と言えず、翻訳の勉強を始めたのはこの十五年もあとのことだからだ。ただこの作品の持つ独特の雰囲気に、これはフランシスの原文によるものなのか、それとも菊池光氏の翻訳によるものなのかと疑問に思ったことをよく覚えている。
その疑問に答えを出したく、英語の勉強を始めた頃に、フランシスの『The Edge(横断)』とロバート・B・パーカーの『Early Autumn(初秋)』を原書と邦訳で読んだ(いずれも邦訳は菊池光氏)。それでわかったのかどうかは疑問であるが、結局は原文と翻訳の両方が織りなす独特の雰囲気なのだというありきたりの結論に落ち着いた。それでも、この作品は初めて自分に翻訳というものをはっきりと意識させた作品だった。
競馬シリーズのファンのなかには、菊池光氏の翻訳の熱烈なファンも多い。告白すると、自分もあの独特な翻訳の文体を真似しようとしたこともある。だがあまりうまくいったとは言い難い。それは技術的な問題ではなく、覚悟の問題と言える。
翻訳が個性的であるということは、称賛を受ける反面、批判されることも多い。菊池氏の翻訳についても批判する人々は一定数いる。要は個性という唯一無二のものを手に入れる代わりに、批判もすべて受け入れる覚悟があるかということだ。そうなると、翻訳家に強烈な個性というものは必要なのかという問題にも関わってくる。
「翻訳家は黒子であるべき」という意見があり、そのことばに対する翻訳家自身からの反論も多く聞く。わたしはそういった反論にもうなずきつつ、このことばには一定の真実もあるのではないかと思っている。あるいは自分にはまだ批判に耐える覚悟がないというだけなのかもしれない。「批判にも中傷にもやっかみにも耐えてこその表現者ではないのか」とは、大先輩の翻訳家、染田屋茂氏のことばである。自分のなかにまだはっきりとした答えはない。翻訳家としての覚悟を求めて一作一作を訳していきたいと思っている。
などとめずらしくまじめなことを考えていたところ、今年、文藝春秋からディック・フランシスの息子、フェリックス・フランシスによる新競馬シリーズが随時刊行されるという知らせが飛び込んできた。その一作目は奇しくも『利腕』の主人公シッド・ハレーが登場する作品だそうだ。またシッドに会える日が来るとは思ってもいなかった。
公表されている情報によると、翻訳は加賀山卓朗氏が担当するそうだ。加賀山氏はロバート・B・パーカーのスペンサーシリーズで菊池光氏のあとを引き継いで翻訳を担当しており、納得の人選だろう。また加賀山氏は田口俊樹先生門下の先輩でもある。いつか、ディック・フランシスやフェリックス・フランシスの作品について、そして菊池光氏の翻訳について話しを聞いてみたいものだ。
◆自己紹介に代わる訳書三点
・ロバート・ベイリー著
『ザ・プロフェッサー』シリーズ
(小学館文庫)
・リチャード・ラング著
『彼女は水曜日に死んだ』
(東京創元社)
・R・J・エロリー著
『弟、去りし日に』
(創元推理文庫)