追悼

追悼 鶴見俊輔氏
忘れるということと、永遠とがおなじだと感じる時がある

本多正一

 今年は暑い夏だった。七月二十日に鶴見俊輔さん、八月二日に出口裕弘さんが亡くなられた。
 出口さんは五年前ほど前、鬱病のさなか所用でお電話をくださり、「中井さんの葬式のときの、あなたの中井さんへの大罵倒あいさつはとてもよかった。元気で!」と呵々大笑してくださった。奥さまも「あなたの前にも、たくさんの若い人たちが中井さんの面倒をみてたのよお」と笑われた。
 鶴見さんは「オレの日本での学歴は小卒なんだ。数少ない学校のときの友人である中井をみとってくれたお礼に夕食をともにしたい」とご招待をいただいた。結婚のときにも「お祝いをしたい」と愚妻ともども料亭へ案内してくださった。分に過ぎた時間を思い返している。
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 一九九三年の夏だった。中井英夫が最後の入院をして、親しい方々へ連絡先変更の葉書を出した。すぐにお電話をくださったのが鶴見さんだった。「なにかのときは駆けつけるから、中井によろしく伝えてくれ」。
 翌日、病床の中井英夫にそのことを伝えると「そうか」と満足そうに微笑んだ。
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 鶴見さんは推理作家協会に入会していることをよろこんでおられたようだ。二〇〇三年、NHKで協会の会員証を手にしてインタビューに答えている。

鶴見 わたしはひとつシナリオをもっているんですよ。そのへんで倒れて死んでいると、おまわりさんが来てふところをさぐるでしょう。そうすると「推理作家協会会員証」というのが出てくる。「え! これ推理作家なのか。あんまり聞かない名前だなあ」と。これですよ(笑)「推理作家? 売れない作家だろう」なんて会話が聞こえてくる。楽しみです。
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 鶴見さんに初めて京都へ招待されたときのことだった。夕食をとるため、タクシーでホテルへ向かった。目当ての店が改装中で、もう一度タクシーをつかまえるはめになった。鶴見さんが事情を話すと、
「ここの食堂街が改装中なのは、タクシーならみな知ってるはずですけどなあ。お客さんも運転手に尋ねればよかったですな。知恵がたりませんでしたなあ」
 とのんびりした声で答えた。もちろん客が鶴見俊輔とは知らない。
 すかさず鶴見さんは「そうそう、知恵がたりなかった。知恵がたりなかった」と笑われた。
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 この小文のタイトルは、その晩、三嶋亭ですき焼きをつつきながら、酒の呑めない鶴見さんが中井英夫の晩年の様子を収めた写真集『彗星との日々』のゲラをめくり、「オレには理解できないね」と笑いを爆発させ、しかし見終えると嘆息して書いてくださったものである。
「この写真集を見通せる男がどれほどいるか。日本の全人口の何パーセントだろう。こういうことは日本では全部、女の仕事なんだ。わたしも自分の妻は看取るつもりだったが、オレのほうが先に逝くな。残念だ」とつぶやいての一筆だった。
 埴谷雄高さんの「精神のリレー」、中井英夫の「死んだらひとの心の中へ行く」といったことばと重なって聴こえる。
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 鶴見さんのことを思いだすたび、鶴見さんの本をひらくたび、あのときの鶴見さんの「そうそう、知恵がたりなかった、知恵がたりなかった」という笑い声がよみがえる。