入会のご挨拶
歌田年
この度、日本推理作家協会の末席に加えて頂くことになりました、歌田年と申します。第一八回『このミステリーがすごい!』大賞にて大賞を頂戴し、『紙鑑定士の事件ファイル 模型の家の殺人』でデビューしました。二〇二〇年の新年会で、新人紹介の檀上に自作のジオラマを持ち込んだ素っ頓狂な男としてご記憶の方もおられるかと思います。ペンネームの苗字は本名ママ、下の名前は本名を少しひねったものです。出身地は東京都八王子市で、近接する山梨県には歌田という地名があるので、そこがルーツではないかと睨んでいます。
前述のごとく模型と紙を題材にした作品で世に出させて頂いたわけですが、お察しのとおりいずれも私の人生において関わりの深いものでした。まず、児童期から続いたプラモデル趣味が高じて、大学卒業後は模型専門誌を主軸にした中堅出版社に就職、後年、他社に転職後も引き続き模型誌の編集者として働きました。計二五年に上ります。そこで模型に関する知見を深めるとともに、文章表現の研鑽を積みました。模型製作のハウトゥ記事をいくつもいくつも書くことで、専門的かつ複雑な作業や状況をわかりやすく説明する術を身に着けられたのかなと思っています。その後、資材調達局という部署に異動となり、印刷用紙の手配業務に携わりました。そこでの四年間で紙に関する知識を得たのです。
九つの出版社が合併した大会社の中枢部門にいて大変満足していたのですが、家庭の事情があって、六年前に早期退職を決意しフリーランスとなりました。以降は単発の編集仕事や校閲作業、ホビー商品の企画、自作造形物の展示販売等、色々やりました。しかし、長年夢見てきた「物語を創る」立場になることへの渇望がどうにも募り、背水の陣を敷いて臨んだところ、幸運にも賞を頂くに至った次第です。
実は文学新人賞への挑戦を始めたのは二〇年ほど前になります。同じ活字を扱う本業の合間に原稿を書き溜めては応募することを、何年かに一度というペースで続けてきました。この間、選考を通過することはあったものの受賞に至らなかったのは、出版社にいていつでも自分の企画で本を出すことができ、表現したいという欲求もある程度満たされてしまって、今一つ創作への本気度が足りなかったのではないかと自己分析しています。
思い返すと、創作したいという希望は中学生の頃に芽生えたでしょうか。安価な文庫本というものを知って圧倒的に読書量が増え、著者名で作品を探すようになって作家の存在を意識した時、作文の時間に提示されたテーマ「将来の夢」には迷わずこの職業を選んだものです。あれから四〇ン年、ようやく夢が叶ったわけですが、ちょっと時間がかかり過ぎてしまいました。
読書そのものが好きになったのは、グンと遡って五、六歳頃だったと思います。自身が読書家の母が通販で童話全集を何セットも買い揃えてくれ、それで下地ができました。小学校に上がると、図書室にはさらに多様な本が並んでいてメチャクチャ興奮したのを覚えています。「推理もの」を知ったのもこの頃で、ジュブナイル化されたホームズやルパン、少年探偵団といった有名ブランドがズラリと棚に鎮座していました。
しかし一番思い出深いのは、九歳の時に書店の店頭で自分で吟味して買った大石真さんによる児童文学『チョコレート戦争』です。一九六五年初版とあるので、もう半世紀以上前の作品になります(現在も刊行)。最初は北田卓史さん描く可愛くもディテールの精密な(初期の鳥山明的な)挿絵に惹かれたのですが、読んでみてその面白さにたちまち虜になりました。日常的で身近な設定で、まったく「推理もの」とは銘打っていないのに、その内容は「冤罪を着せられた少年たちが大人への復讐を期して強奪計画を遂行するケイパーもの」になっていたのです。冤罪自体も計画も他愛のないものでしたが、とてもツイストが効いていて、最後は意外な真相と大逆転が待っているなど、たいそう凝った物語でした。しかも食欲をいたくそそるグルメものとしても先取りしていましたね。また、リボルバー拳銃の短銃身を表す「スナブノーズ」という専門用語を知ったのもこの作品です。いわゆる「推理もの」を人生で初めて深く堪能した経験でした。
……と、ここまで書いてきて急に思い出したのですが、当時、本書に惚れ込んだあまり、真似して短い話を自作したのでした! 実は私の創作第一号はこの頃に書かれたのです。確か母に読ませたところ、あまりに設定が似過ぎていたので、パクリ(当時はそんな言葉はありませんが)なんてくだらない、とピシャリと窘められた覚えが。
というわけで、五○ン歳のあまりフレッシュでない新人ですが、少しでも当ジャンルの賑やかしになるよう頑張って参りますので、どうぞよろしくお願い申し上げます。