追悼

追悼 飛鳥高氏

廣澤吉泰

 飛鳥高さんの逝去を知ったのは二月十七日だった。
 二月十四日、前夜に強い地震があったため、お見舞いのメールをお送りした。そのメールが「ユーザーが見つかりません」ですぐ戻ってきたのだ。飛鳥さんの最近の著作を手掛けている論創社の黒田明氏に問い合わせ、二月五日に亡くなられたことを知った。一九二一年二月十二日生なので、満百歳を迎える前の旅立ちであった。
 初めてお会いしたのは大学四年時で、一九八七年のことになる。友人と二人、インタビューで勤務先にお伺いした。ところが、予定時間に遅れ、最後にサインを頂こうとした『灰色の川』が、版元が無断で再刊した本のため気分を害するわ、と散々だった(サインはして頂けました)。
 そのような出会いのため、飛鳥さんの会社での後輩(清水建設)となりながら、積極的にお会いする気持ちが起きなかった。その後、二〇一一年に私が所属するファンジン「SRの会」がご自宅を訪問すると聞き、そこに紛れ込ませてもらった。「日本探偵作家クラブ賞」のトロフィーやクラブの会員証であった指輪(九十番の番号入り)を拝見し、平穏裡にお開きになったところで、「実は、私は学生時代に……」と旧悪を告白し、笑ってお許しいただいた。
 二〇一五年、飛鳥さんから「推理作家・飛鳥高」という冊子をお送り頂いた。古書店・芳林文庫の島田克己氏がまとめられ、同氏の没後、残された原稿をもとにご子息の島田恵一朗氏が編纂されたものである。飛鳥さんの写真、年譜、著作リスト等が掲載された一級品の資料だ。添えられたお手紙に、昨年の暮れから、近くの老人ホームに入ってます、とあった。ご自宅を訪問するよりは気遣いせずにすむ、と考え「推理作家・飛鳥高」の受領御礼かたがた、二〇一五年二月に協会員の石井春生さんと足を運んだのが「つつじヶ丘通い」の最初であった。
「つつじヶ丘通い」と書いたのは、飛鳥さんの老人ホームの最寄駅が京王線「つつじヶ丘」だったからだ。ホームへは駅から送迎車が出ている。その出発時刻が十三時二十分であったため、訪問時には「つつじヶ丘駅の改札で十三時」で集合するのが常であった。面会室で一時間ほどお話をして、十四時三十分ホーム発の車で駅に戻るのが標準だったが、時には話がはずんで乗りはぐれることもあった。飛鳥さんが転倒され、骨折されたこともあった。しかし、九十歳過ぎにもかかわらず、リハビリで復活されたのには驚かされた。最近は、コロナ禍もあり訪問をためらっていた。今年一度もお伺いしないまま、訃報に接することとなってしまったのは悔やまれる。
 最後にお会いしたのは二〇二〇年の二月二十九日であった。論創社から再刊された『細い赤い糸』が神保町の「東京堂書店」で週間売上一位になったことを喜んでおられた。同書は、飛鳥さんの直筆サインに赤い糸をあしらった装幀が評価され『二〇二一 本格ミステリ・ベスト10』(原書房)で第二十四回装幀大賞を受賞した。それをお知らせできなかったのは残念だった。謹んでご冥福をお祈りいたします。