新入会員挨拶
小学校二年生の時に、初めて物語を書きました。
ジャンルはミステリーで、「どうだ!」と、自信満々で書いたのを覚えています。
母に読んでもらい「面白いね」と、笑ってくれました。
その時の、恥ずかしくて死んでしまいたくて、惨めな気持ちは、思い出す度に今も強烈に私を打ちのめしています。
お義理の褒めが嫌でした。母に褒められたかった自分の卑しさに情けなく、部屋でわんわん泣きました。
悔しい。もっと心から「面白い」と思わせる作品を書きたい。
私の心に消えない炎が燃え出したのは、ここからでした。
それから、ずっと物語を書き続けました。
中学一年の時、お年玉で念願の同人誌を作ったり、書きたい衝動のまま、たくさんの文を書き散らしました。
高校生の頃、思春期まっさかりだった私は、進路を芸大の日本画コースに決めました。
小説家になる気はなく、母が日展に出展する日本画家だったので、母のような絵描きになりたい思うようになりました。
母は多彩な人で、茶道の師範や日舞、俳人や画家なども仕事の傍らにやっていました。
両親にわがままを言い、電車で一時間かかるデッサン教室と水彩画教室に通わせてもらいました。
そこで、私の心が折れました。
なぜなら、教室には恐ろしく絵が上手い、才能ある人間がたくさんいたからです。
才能の前で、努力しても無理なんだと悟りました。
才能ある者が、血を吐くくらい努力をしている姿を見て、私は毎日絶望の日々を送っていました。
放課後、電車に乗り、絵画教室に行く間、図書館で借りた江戸川乱歩先生の本を読むのが私の癒しでした。
特に『孤島の鬼』が大好きで、夢中になって読みました。
先生の作品は全部読破してしまったので、エッセイや先生のお弟子さん達のアンソロジーなどを読みました。
私は北陸出身なのですが、江戸川先生が北陸に来ていたと知り、飛び上がるくらい嬉しかったです。
江戸川先生の別名義「小松龍之介」の「小松」は、もしかしたら石川県の小松市からつけたのかもしれない、なぞと想像して、わくわくしました。
そして、大学受験の結果発表。
結果は、不合格でした。
あんなにお金をかけてもらったのに、ワガママを言ったのに、落ちてしまいました。
涙も出ないくらい、自分に絶望しました。
親に申し訳なく、このまま私なんか消えてなくなればいいのにと、部屋の壁を何時間も眺めていました。
そんな私に、母が「素直に作家を目指しなさい。応援するから」と、言葉をかけてくれました。
私の滑稽で愚かな思春期は終わりを告げ、絵とは関係のない大学へ通いました。
大学ではミステリ研究会に入りました。
綾辻先生、京極先生の本を研究し、文化祭で研究結果を冊子にしたり、夜通しミステリーとはなんぞやとサークル仲間で論争繰り広げたり、鍋を囲んでノックスやトリックについて語り合ったりしました。
その頃には、私の夢は作家になることだと、素直にそう言えるようになっていました。
作家になって、母に謝ろうと思っていました。
けれど、母は大学在学中に癌が全身に転移してしまい、発見が遅れたこともあり、帰らぬ人になりました。
母は、仕事ばかりの人生でした。
けれど、子供達を命懸けで愛してくれる、世界で一番の自慢の母でした。
もう、どうでもいい。
母がいないなら、作家になっても意味がない。
とてつもない虚無感に襲われた私は、簡単に夢を捨てました。
母が亡くなり、看病を終えた私は、地元で就職をしました。
けれど、不思議なのです。
母はもういないのに、作家になることは諦めたのに、物語を書きたいのです。
どうしても書く衝動を止められず、仕事の合間にネットで文章を書き続けました。
私なんかが書いた物語を楽しいと言ってくれる読者さんが一人、二人と現れました。
そうして、いろんなご縁があり、私は作家になりました。
母は、もうこの世界にいませんが、私には読者さんがいます。
自己紹介が遅れまして、申し訳ありません。
みゆと申します。
作家業界の末席も末席で小説を書いております。
憧れだった日本推理作家協会の会員に入ることができ、感激しております。夢のようです。
あまりに嬉しく、先日、母の命日があり、お墓参りをした時に報告をしました。
私を会員にしてくださり、ありがとうございます。
若輩者ですが、どうぞよろしくお願い致します。