翻訳家の大切な一冊

「山田風太郎。『闇の奥』」

上野元美

 いま私がしている英和翻訳の仕事の本質には〝本を読む〟ことが含まれている。ただ読むだけなら昔からやってきた。添付された参考文献や、物語の主人公が読んでいた本など、ジャンルを問わず興味の向くまま読んできた。『赤毛のアン』を読み、アンが読んでいて〝宗教色が強すぎる〟と叱られた『ベン・ハー』をつぎに読むというように。
 その習慣はずっと続き、やがて巡りあった森嶋通夫という経済学者の自伝を読んでいたときだった。「『ヘンリ・ライクロフトの私記』は古すぎてイギリスではもうほとんど読まれていないといわれた」と書かれていたことに軽くショックを受けた。貧しい生活をしながら物を書き続けてきたライクロフトが、老年になって友人から遺産を贈られて田舎へ引っ込み、念願だった平穏な生活をいとなむ様子が描かれている。一九〇一年にジョージ・ギッシングによって発表された物語だ。私はこの話がとても好きで非常用持ち出し防災袋にも入れてある。
 一九二三年生まれの森嶋は、十三歳で七年制の波速高校に入学し、一年生の英語の授業のテキストとしてこの本を読まされた。子どもにとっては退屈な物語だったらしい。森嶋がイギリス人からいつそう言われたかはわからないが、勤めていた阪大を辞めてイギリスへ渡り、ロンドン・スクール・オブ・エコノミクスの教授となったのが一九六九年だし、それ以前にイギリス留学経験もあるので、すでに二〇世紀のなかばすぎにはイギリスでは読まれていないと考えるイギリス人がいたということだろう。日本にはこの本のファンが少なからずいるものと私は思いこんでいたので、母国でそんなことになっていたと知って驚いた。そして、描かれた物語が時代を経て、遠く離れた場所で読みつがれている不思議が強く印象に残った。どういう物語がどういう場所でのちの時代まで残るのだろうか。
 こうして本を読み、仕事をしていたある日、思ったことがある。以前どこかで見かけた「作家渾身の一文」の意味を私は取り違えていたのではないかということだ。どういう意図でそのフレーズが使われたかは忘れたが、たぶんこういう意味だろうなという自分の勝手な解釈は覚えていた。大学時代から読んでいるフィッツジェラルドの『華麗なるギャツビー』が、コンラッドの『闇の奥』を下敷きにした物語だと知ったころだった。
『闇の奥』は映画の『地獄の黙示録』や『パルプ・フィクション』の元ネタだとも知られている。正直いって、私にはどちらの物語もそれほどおもしろいとは思えなかったし、なにを言いたいのかよくわからなかった。それでも、ときどき読み返したり、映画を見返したりするうちに、天才作家たちがおそらく苦心を重ねて書いた文学を、私ごときが漫然と数回読んだくらいでは理解できないのは当然だと思うようになった。そして「作家渾身の一文」という意味を誤解していたのかもしれないと思った。
 それはたとえば、文脈のなかで唐突に浮きでるような妙な文章だったりする。それは私にとっての読み解くためのヒントだ。底は見えないほど深い。彼らが細心の注意をはらって配置した文章を読み飛ばしたり読み落としたりしないように、以前にも増して時間をかけて読むようになった。疲れることもあるけれど、当分はこのやりかたで読むことにする。

 タイトルについて。山田風太郎の本が大好きでずーっと読んできました。私が推理作家協会の入会を許されたとき、山田さんはまだご存命で協会員でいらっしゃいました。私はそのことをたいへん喜び、名誉なことだとひそかに思っていました。山田さんの本と私の翻訳の仕事が直接つながるようなエピソードはなく、今回のエッセイにうまくまとめることができませんでした。しかし、私にとっての読書というテーマには欠かせないものです。尊敬と感謝をこめて、このタイトルにしました。

★自己紹介に代わる訳著3作
ウィリアム・ブルワー「レッド・アロー」(早川書房)
マイケル・バー=ゾウハー「モサド・ファイル2」(早川書房)
ダイアン・クック「静寂の荒野」(早川書房)