入会のご挨拶
はじめまして。新入会員の谷口基と申します。二〇一三年夏に上梓した拙著『変格探偵小説入門 奇想の遺産』が、幸運にも第六十七回日本推理作家協会賞を受賞し、その御縁でこのたび入会をお許し戴きました。この場をお借りして、御礼ならびにご挨拶を申し上げたく存じます。少年期よりミステリ文学に耽溺し、一時は真剣に創作を志し挫折した過去を負う身といたしましては、憧れの諸先生方が綺羅星のごとく居並ぶ日本推理作家協会の一員となることは、まさしく無上の光栄であります。
私は現在、水戸市にある茨城大学人文学部に教員として勤務しております。専門は日本近代文学ですが、いわゆる純文芸作品を中心に組み立てられた既存の文学史観を、ミステリ、伝奇小説、怪談、実話などの投入によって相対化し、読みかえていく、という方法を模索しております。夏目漱石はなぜ「文豪」なのか? 人間心裡を極限まで掘り下げ、さらに小説の構造・文体に革命的な進化をもたらしたからだ――しかし、それだけではない。明治二十年代に海外から移入された探偵小説が翻案の域を脱し、大正末期にはじまる黄金時代を迎えるに至った途上には、「謎」に充たされた人生をひたすら論理的に解析していこうと足掻くあまたの「探偵志願者」たちを描き出した瀬石文学の近代性があり、同時にまた、非論理の論理を貫いた泉鏡花の反近代的志向があり、モラルも常識も踏み越えていく谷崎潤一郎の越境者のまなざしがあった。偽史と偽書によってフィクションの楼閣を打ち立てた芥川龍之介がいて、「テエマ小説」に黒い哄笑を充填した菊地寛がいた。彼らの偉業を見はるかすにあたって、ミステリの領域は断じて無視されてはならないはずである……。このような観点は、大学院時代に心酔していた故・前田愛教授からの影響によって形成されたものであります。
前田先生は当時、大著『都市空間のなかの文学』で文学研究と都市論を接近せしめたパイオニアとして巍々たる存在でありましたから、その学風と磊落なお人柄を慕って、ゼミナールには学外からも野心にあふれた若手研究者が蝟集していました。従ってゼミは悽愴苛烈の気を帯び、激論につぐ激論が教室から居酒屋にまで持ち越され、深夜におよぶまで続く、という状態でした。そのなかには、第一回「幻視の文学」賞に輝いた加藤幹也氏(現・高原英理氏)や、久生十蘭研究で著名な川崎賢子氏でなど、幻想文学や探偵小説に造詣が深い面々がいて、私の向学心は大いに刺激されました。また、そもそも前田先生ご自身が、行くところ可ならざるなし、という大研究者でしたから、近代文学史における小栗虫太郎や橘外男の重要性を黄色い嘴で訴える一年生坊主の私を、莞爾として正面から受けとめ、かつ丁寧に論破して下さったのでありました。「これからは大衆文学の本格的な研究者が絶対に必要だ」という力強い言葉が、その後の私の人生を決したといっても過言ではありません。さらに、先生の勧めで私は川崎氏が世話役をつとめていた『新青年』研究会に参加することになり、いっそう深くミステリの世界にのめりこんでいくことになったのです。
当時、同研究会は国電飯田橋駅近くにあった作品社の会議室を借りて月例会を行っていました。そこには『新青年』の表紙画で有名な松野一夫画伯から寄贈された『新青年』バックナンバー数十冊が置かれ、自由に閲覧することができました。例会報告は、『新青年』を数年単位(十五冊~三十冊以上!)で読破し、掲載記事や読物の詳細なリストを作成し、参加者の求めに応じてその内容や傾向を紹介するという苛酷なものでありましたが、私が参加しはじめた頃にはこの作業はすでに終盤にさしかかっており、かろうじてムック『「新青年」読本』(一九八八年、作品社)の執筆陣に加えて戴いたところで研究会は解散してしまったのです。しかもほぼ時を同じくして大恩ある前田先生が急逝され、私は一時期、まったく天地晦冥の心理状態に陥ってしまいました。
しかし一年後、川崎氏を代表として第二次『新青年』研究会が発足。ほどなく同会は『新青年』旧版元・博文館の社主であった大橋家の方々とお近づきとなり、この奇縁によって博文館新社から『叢書新青年』全五冊の刊行が決定、私は浜田雄介氏(現・成蹊大学教授。その後、私の師匠となって下さいました)の助手として第二巻『渡辺温 ラ・メデタ嘘吐きの彗星』の編集に携わったのですが、その作業行程は本当に楽しいものでした。連日図書館、資料館をめぐってテクスト照合を行い、その後はメンバーの部屋に泊まり込んでの校正と編集会議。休日には『新青年』ゆかりの作家、編集者諸氏を訪ねてお話をうかがい、合間を縫って解題・解説を執筆……。猛烈に忙しくはありましたが、前田ゼミで味わった無限に続く祭のような高揚感に包まれてただただ幸福でありました。作業が終了してしまうことが惜しくてならず、いつまでもこの忙しさが続けばいい、と本気で考えていました。
あらためてふりかえりみると、この頃の体験こそが現在の私を作ったことは疑えません。良き師、良き仲間に恵まれ、自分たちの手であたらしい「文学史」を構築していこうと力んでいた当時の記憶は、今なお自分を支えているのです。孤独な執筆作業中に手を休めた一瞬間や、学生たちとの語らいの合間にふと甦るこの記憶を抱きしめて、今後も頑固に、愚直にミステリ研究を継続していく所存でございます。何卒、宜しくご指導、ご鞭撻のほどをお願い申し上げます。