追悼

小鷹先生の思い出

宮脇孝雄

 小鷹さんの著作リストを見ると、三十代の後半から四十代の初めにかけて、たくさんの本をお出しになっている。その時期に小鷹さんの事務所に出入りして、仕事を教わりながら翻訳のお手伝いをしていたグループがあって、誰がいいだしたのか「小鷹組」と呼ばれていた。
 破門されたメンバーもいたが、お世話になった私たちは、多大な恩恵を受けながら、それぞれ独立し、翻訳を中心にした文筆業で生計を立てている。
 十年ほど前のことだが、仲間の一人、私の四歳上の先輩に当たるMさんが、重篤な病気で入院しているという知らせが小鷹さんから届いた。うかつなことにそのことを私は知らなかったが、小鷹さんは「組員」のその後をずっと気にかけていたのである。声をかけてもらい、二人でお見舞いに行くことになった。
 甲州街道のファミレスの前で待ち合わせて、中央道で八王子方面に向かった。病院が見つからず、コンビニに寄って地図を見せてもらったりした。
 カーナビがあっても行きつけない病院、ということで、ある種の予感はあったが、山道を登ってたどりついたところは、入ってすぐの狭いホールに警備員詰所のような受付だけがあり、そこから続く扉のすべてに鍵がかかっている施設だった。白衣を着た年配の女性がその扉のひとつを解錠し、短い通路を抜けると、ベッドがたくさん並んだ大部屋があり、そこにMさんが横たわっていた。
 目は開いているものの、焦点は定かではなく、私たちのことに気がついているのかどうか、その様子からはわからなかった。
 私はただ呆然として、何もできなかったが、小鷹さんはしっかりした足取りでそのベッドに近づき、そばにあった椅子を引き寄せて腰をおろした。そして、Mさんの片手を両手で握って、
「Mくん、わかるか、小鷹だよ。いいか、元気出せよ。元気出すんだぞ」
 と声をかけたのである。
 そのとき、Mさんの目がかすかに動いたような気がした。
 帰りの車内では、リチャード・コンネルの短篇「最も危険なゲーム」と、ギャビン・ライアルの長篇『拳銃を持ったヴィーナス』との関係について話をしたが、私の頭の中では、喉の奥から絞り出したような、あの小鷹さんの言葉が何度も再生されていた。
 翻訳業界において、師匠とその弟子、という言い方は、今でもよく耳にするが、その意味合いは昔とはだいぶ違う。誤解を恐れずにいうなら、翻訳学校システムが行き渡った今、その師弟関係は――少なくともその一部は、授業料という金銭のやりとりによって成り立っている。少なくとも、ミステリが好きだから翻訳をやりたい、よしわかった、引き受けよう、という関係ではない。
 お見舞いのあと、十日もたたないうちに、Mさんは亡くなった。小鷹さんからいただく年賀状には、次の年から、「体には気をつけろ」という言葉が必ず添えられるようになった。
 小鷹さん自身は余命を見据えて見事に旅立ってゆかれた。今ごろは私の兄弟子たちと向こうでまた小鷹組をはじめているかもしれない。
 あとに残った私は、小鷹さんがこちらにいらっしゃったあいだに充分な恩返しのできなかったことを悔やんでいる。