入会のご挨拶
田内志文
思い起こせば、物を書くことや読書がとにかく好きだったという時期が、僕の人生にはありませんでした。幼少期より、作家だった父に半ば無理やり書かされていたのでそれなりに書けはしましたが、その教育がいささか強制的だったものですから、僕はむしろ物書きや読書といったものを毛嫌いしながら暮らしてきたのです。
大学に入って家を出ると、それまで禁止されてきたことをやりたいだけやり、強制されてきたことをすべて放棄するようになりました。テレビゲームとマンガ、オートバイいじり、そしてアルバイトに明け暮れ、読書や物書きは完全に放り出してしまったのです。大学四年間は、学校では何も学ばないクズのような学生として過ごしました。その結果、周囲が就職活動を始める時期になっても自分がどんな仕事に就きたいのか分からず、また、仮にあったとしてもその能力がない無能者になっていたばかりか、「真面目に就職なんてださいぜ!」とばかりに、リクルート・スーツ姿の友人たちをしりめにロックンロールしていたのです。
そんな時に知人が、「じゃあとりあえずライターの仕事を手伝ってよ」と声をかけてくれ、大学卒業とともにゲーム攻略本業界に入ったのが、物書きとしての第一歩になりました。今でも母校の情報をウェブで検索すると、僕の業績を「大学時代は英語だけではなく、特に日本語表現に磨きをかけた」という一文とともに紹介してくれているページが見つかるのですが、実情はその逆で、大学でまったく何も学ばなかったからこそライターになったのです。
さて、当時はライターの単価がどんどん下がっていた時期ですし、駆け出しで仕事もなかったので、当然食えません。僕は馬鹿でしたから、「いや、俺はこの道で一流になるんだ。フリーライターって、なんだかかっこいいし」という根拠のない自信で突っ張っていました。仕事もろくにないのに、「フリーライター 田内志文」と書かれた名刺を自宅で作っては、「なんてクールなんだ……」と馬鹿な勘違いをしていたものです。
しかし内心はたぶん不安だったのでしょう。僕を見かねた家族からの説得に乗って、イギリスに渡ることになります。そして、イースト・アングリア大学院の翻訳科に進むわけですが、これも、翻訳家を志していたからではありませんでした。受験した語学テストの結果、そこにしか引っかからなかったのです。
大学院で修士論文を書いている当時、どうしても読まなくてはいけなくなって日本から翻訳書籍を何冊か取り寄せたのが、二十四歳当時のこと。高校を卒業してから五年あまりで、これが初めての読書でした。そのくらい、本に対する興味が僕はなかったのです。そんないきさつがあるものですから、「作家・翻訳家の息子として生まれ、大学で日本語を学び、翻訳家を志して渡英、名門大学の翻訳科で翻訳の勉強をした」のような紹介をされるたびに、「それぜんぶ違うんだけどなあ……」と、内心では非常にばつの悪い思いをしてきたものです。
翻訳家として初仕事をしてから十三年、幸いにもほとんど仕事が途切れることなく今にいたるわけですが、そのほとんどの期間、僕は「本当にこの仕事が好きなんだろうか」と思いながら過ごしていました。しかし、十年も続ければ、やはり何らかの意気込みというか、目標めいたものができてくるものです。最近は、翻訳書籍を手にする読者の減少傾向を見つつ「読書をだるい、めんどくさいと思ってきた自分だからこそ取れるアプローチがなにかあるのではないだろうか」と思うようになりました。こうして歴史ある協会に加えていただくことには非常に恐縮しておりますが、翻訳にかぎらずさまざまな文筆活動を行っていきたいと思っていますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
余談になりますが、僕は趣味でビリヤードをしており、現在「日本一入れる文筆家」を自称しております。これについてはどなたの挑戦でも受ける覚悟でおりますので、腕に憶えのある方がいらっしゃいましたらお待ちしています。
最後になりましたが、今回ご推薦下さった西上心太さん、片山奈緒美さん、ありがとうございました。心から感謝いたします。
大学に入って家を出ると、それまで禁止されてきたことをやりたいだけやり、強制されてきたことをすべて放棄するようになりました。テレビゲームとマンガ、オートバイいじり、そしてアルバイトに明け暮れ、読書や物書きは完全に放り出してしまったのです。大学四年間は、学校では何も学ばないクズのような学生として過ごしました。その結果、周囲が就職活動を始める時期になっても自分がどんな仕事に就きたいのか分からず、また、仮にあったとしてもその能力がない無能者になっていたばかりか、「真面目に就職なんてださいぜ!」とばかりに、リクルート・スーツ姿の友人たちをしりめにロックンロールしていたのです。
そんな時に知人が、「じゃあとりあえずライターの仕事を手伝ってよ」と声をかけてくれ、大学卒業とともにゲーム攻略本業界に入ったのが、物書きとしての第一歩になりました。今でも母校の情報をウェブで検索すると、僕の業績を「大学時代は英語だけではなく、特に日本語表現に磨きをかけた」という一文とともに紹介してくれているページが見つかるのですが、実情はその逆で、大学でまったく何も学ばなかったからこそライターになったのです。
さて、当時はライターの単価がどんどん下がっていた時期ですし、駆け出しで仕事もなかったので、当然食えません。僕は馬鹿でしたから、「いや、俺はこの道で一流になるんだ。フリーライターって、なんだかかっこいいし」という根拠のない自信で突っ張っていました。仕事もろくにないのに、「フリーライター 田内志文」と書かれた名刺を自宅で作っては、「なんてクールなんだ……」と馬鹿な勘違いをしていたものです。
しかし内心はたぶん不安だったのでしょう。僕を見かねた家族からの説得に乗って、イギリスに渡ることになります。そして、イースト・アングリア大学院の翻訳科に進むわけですが、これも、翻訳家を志していたからではありませんでした。受験した語学テストの結果、そこにしか引っかからなかったのです。
大学院で修士論文を書いている当時、どうしても読まなくてはいけなくなって日本から翻訳書籍を何冊か取り寄せたのが、二十四歳当時のこと。高校を卒業してから五年あまりで、これが初めての読書でした。そのくらい、本に対する興味が僕はなかったのです。そんないきさつがあるものですから、「作家・翻訳家の息子として生まれ、大学で日本語を学び、翻訳家を志して渡英、名門大学の翻訳科で翻訳の勉強をした」のような紹介をされるたびに、「それぜんぶ違うんだけどなあ……」と、内心では非常にばつの悪い思いをしてきたものです。
翻訳家として初仕事をしてから十三年、幸いにもほとんど仕事が途切れることなく今にいたるわけですが、そのほとんどの期間、僕は「本当にこの仕事が好きなんだろうか」と思いながら過ごしていました。しかし、十年も続ければ、やはり何らかの意気込みというか、目標めいたものができてくるものです。最近は、翻訳書籍を手にする読者の減少傾向を見つつ「読書をだるい、めんどくさいと思ってきた自分だからこそ取れるアプローチがなにかあるのではないだろうか」と思うようになりました。こうして歴史ある協会に加えていただくことには非常に恐縮しておりますが、翻訳にかぎらずさまざまな文筆活動を行っていきたいと思っていますので、なにとぞよろしくお願いいたします。
余談になりますが、僕は趣味でビリヤードをしており、現在「日本一入れる文筆家」を自称しております。これについてはどなたの挑戦でも受ける覚悟でおりますので、腕に憶えのある方がいらっしゃいましたらお待ちしています。
最後になりましたが、今回ご推薦下さった西上心太さん、片山奈緒美さん、ありがとうございました。心から感謝いたします。