ずいひつ

師はいま雲の上

山本鉱太郎

 「先生」と呼ぶのはやめよう。ほんとはかけがいのない恩師なのだが、先生と呼んではなんだか疎遠な存在になってしまうので、ここはやはり中島さんと呼ばせていただこうか。
 中島河太郎さんは、ぼくが中学一、二年生の時の国語の先生である。ぼくの中学は、向島の百花園に近い都立第七中学校で、いまの都立墨田川高校である。歴史作家で著名な半藤一利さんや大宅壮一ノンフィクション賞を受賞した佐野真一さんや、小説家の宮部みゆきさん、NHKアナウンサーの小川宏さん、俳優の加東大介さんらが出た下町の学校で、戦前は木造三階建ての壮大な校舎であった。
 近くには、幸田露伴の旧宅跡や、桜餅で知られた長命寺などがあり、春桜の頃、隅田川の墨堤は花見客で賑わった。
 太平洋戦争のさ中の昭和十八年四月、入学したぼくは、さっそく中島さんの国語の授業を受けることになった。東大国文科を出たばかりのバリバリの文学青年で、まるで情熱が服を着たような熱血漢で、その大音声は校内にひびき渡った。
 何か気に入らないと、罵詈雑言とともに、学生のランドセルなどの持物を三階から校庭に放り出すこともあって、校内で最も恐れられた存在であった。
 威勢がいいはずだ。今なお噴煙を上げつづける桜島がある鹿児島の出身で、典型的な薩摩ッポ。その頃は坊主頭で黒ぶちの眼鏡をかけていた。
 ぼくは副級長をしていたので、中島さんと話合うことが多かった。クラスは違うが、同期に半藤一利さんもおられた。
 当時、ぼくの愛読書は江戸川乱歩の「怪人二十面相」や、南洋一郎の「吼える密林」などで、軍国少年のぼくは血わき肉おどる思いでそれらをむさぼり読んだ。
 中島さんも、
「ぼくも江戸川乱歩は好きだねえ」
 と言われたのを覚えている。
 一年、二年と授業を受けたが、日本の古典への造詣は並々ならぬものがあって少年ながら驚いた。時には李白や杜甫らの唐詩を吟じ放浪の詩人芭蕉や一茶を説き、万葉の世界を謳いあげ、一頭群を抜いた授業であった。博識であったから、何を聞いても即答してくれ、知識に飢えていたぼくらには、辞書がわりの有難い師であった。
 昭和十九年、七中もご多分にもれず学徒動員にあって、翌年ぼくら三年生は遠く神奈川県瀬谷の軍需工場へと動員され、寮に入れられた。飢えと戦いながら、日夜、ゼロ戦のB29迎撃用の二〇ミリ機関砲の弾丸を作っていて敗戦を迎えた。八月十五日、玉音放送のあと、
「お前らは、まもなく上陸してくるマッカーサーらによって、男子全員殺されるだろう。女子はただちに坊主頭になって山に逃げろ」と歴史の教師に言われ、どうしたらいいものかと唯泣き叫ぶだけだった。

 あれから三十数年。夏のある日、銀座でバッタリ友人と会った。旅のカメラマンで日本推理作家協会の会員でもある藤沢秀さんである。近くの喫茶店で雑談中、たまたま中島さんの話となり、ぼくが中島さんの教え子だと言ったら、藤沢秀さんは、ええっとおどろいていた。
「山本さん、中島さんに会いたくない?」
 と言われ、ぼくはしばしためらった。
 中島馨、改め中島河太郎となった師は、今や日本推理作家協会の理事長であり、和洋女子大学長であり、個性溢れる全国の推理作家たちを束ねる雲上人である。
 はからずも、藤沢さんの労で上野の津軽料理屋で三人は会うことになった。この日相対すると、一瞬にして三十数年のブランクは埋まり、師へのなつかしさがこみ上げてきた。筆舌に尽くしがたい苛酷な戦争体験を生きぬいてきた師弟が、今ここに相まみえることができたと思うと、感激またひとしおであった。
 あの、学校一怖い師も、いまや慈母観音に変化し、そのやさしさ、温かさに包まれてぼくはしあわせであった。終始笑顔で、ぼくのつまらない思い出話に耳を傾け助言してくださった。おそらく、敗戦という狂乱怒濤の体験を通して、人を思いやる謙虚な心を体得されたのではなかろうか。
 別れぎわ、中島さんから推理作家協会への入会をすすめられた。ぼくは放送作家なのでその任ではないと思ったが、「奥の細道なぞふしぎ旅」上下巻、「小林一茶なぞふしぎ旅」「日本列島なぞふしぎ旅」など多くのなぞふしぎ物を出しているので、まあいいかと納得して末席に加えて頂いた。
 そして新書が出るたびに贈呈し、そのつど懇切丁寧なお手紙を頂いて、どんなに励みになったことか。

 手紙は女文字で、やさしい文章で、いつも花模様の封書できた。以下は、私が著した「新利根川図志」上巻への返礼である。
「御無沙汰しておりますが、こんどは御新著お届け下さいまして御健筆なによりのことと存じます。前に『旧水戸街道繁盛記』で、御自身の見聞を考察の行き届いた労作を楽しく拝読しましたが、この度は利根川とのことで、早速読ませて頂きました。
 私が高校生の頃だと思いますが、珍しく岩波文庫で鈴木牧之の『北越雪譜』を知り、続いて宗旦の『利根川図志』が出て嬉しかったことを思い出しました。
 柳田先生の解説も思い入れがありましたが、お陰で二十年前に布佐や布川を探訪しました。柳田兄弟が桜を植えた記念碑、中学には岡田武松の写真があり、対岸の一茶ゆかりの地蔵堂にも寄りました。
 廿二年のカスリーン台風の折の体験談。これもいろいろの思い出を誘われました。小岩のあたりまで水が溢れたので、先生方の慰問に出かけたことでした。磯部の大野九郎兵衛の墓にも寄りましたが、これもまったく変なところにあります。田中正造の事項も興味深く存じました。
 この間、東京湾観音と那古観音まで行きましたが、人寄せのために伏姫の籠の穴などわざわざこしらえているのも変なものです。関宿も寂しいところで、城址の石碑だけでしたが、お城と博物館が出来ました由。
 御著書を拝読して、元の姿を注意深く解説されていて、旧利根川の地図など、ほんとに便利な親切さをありがたく思いました。下巻もこれから大変でしょうが、御健筆をお祈り申し上げます。
 私はミステリィ文学資料館が文化庁の認可を得ましたので、そこに私の蔵書を寄託するため、その仕事に追われています。
 とりあえず拝読のお礼まで」
 超多忙の中、こんなに隅々まで読んでくわしく感想をのべられた恩師のやさしさ、誠実さに、ぼくはしばし首を垂れた。遠い昔の教え子を、いまどう励ますか、その並々ならぬ配慮が全文面にみなぎり溢れ、思わず涙がこぼれ落ちた。師とはそういうものなのか。
 それから数年後、先生からも畢生の大作「日本推理小説史」全三巻が送られてきた。