松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント探訪記 第80回
筒井康隆さんの”凄み”ある作家人生を見事、立体年譜にした筒井康隆展
2018年10月6日~12月9日 世田谷文学館にて

ミステリコンシェルジュ 松坂健

 一九六〇年の二月十二日午前十時三十二分、阪急電車梅田―千里山間の車内で作家になろうと決意したのだそうである。
 作家になるきっかけをこういう風に伝えること自体が、筒井康隆さんという人の作家としての「根性」を示しているものはないと思う。
 筒井康隆氏は一九三四年九月二十四日生まれだから、この阪急車中の突然の”発心”の時、二十五歳。展示や装飾、店舗デザインを専門とする乃村工藝社の社員だった。
 父の筒井嘉隆氏は動物学者で天王寺動物園や大阪市立自然科学博物館の館長を歴任した人。康隆氏は男ばかり四人兄弟の長男で、幼いころから、田河水泡、乱歩の少年探偵団、中学で手塚治虫の『新宝島』、H・G・ウェルズの『宇宙戦争』などを発見、SF的な世界に親しむようになる。一方、映画ではローレル・ハーディのスラップスティックコメディに夢中になり、この頃の少年らしく映画に耽溺する。小学校で知能試験を受けたらなんとIQ一八七! を示したという。
 多趣味で知的に早熟な康隆青年は高校から大学にかけて、演劇に心を奪われていく。
 だが、就職が待っている。
 こんな青年にある日「作家になる」という啓示が降りてきたのである。
 そうして阪急電車。
 その年の五月には父と長男、次男、三男でSF同人誌を発刊する。父親も一緒に参加する家族同人誌というのは、このNULL(ヌル)以外にないのではないか。
 そして、そこに掲載したショートショートが乱歩さんの目に留まり、「宝石」八月号に転載、商業誌デビューとなった。
 そんな筒井さんの生まれた時から八四歳の今までをおよそ一万点の資料で辿ったものが、世田谷文学館で始まった筒井康隆展(二〇一八年十月六日~十二月九日)だ。
 この文学館の特集展示は、前回の澁澤龍彦さんの時もそうだったが、作家の年譜を立体化したもので、実にわかりやすく巧みな展示になっている。
 誕生から作家デビュー寸前まで。一九五九年から七〇年まで(SF界の牽引車)、七〇年代(風刺と奇想をもったSFの傑作乱打期)八〇年代、(『時をかける少女』の一大ブレークと言語実験小説への傾斜)、九〇年代(断筆問題含む疾風怒涛の時代)〇〇年代から現在(まとめにかかったものと彼の文学的総決算としての『モナドの領域』)と会場が各年代別に構成されそれぞれ見ごたえ十分だ。
 ぐるりと会場を時系列に沿って歩いていくと、僕たち団塊世代のエンタテインメント愛好者は、七〇年代、八十年代、確実に筒井さんのものを発刊とほぼ同時に読み進んできたなという実感だ。『四八億の妄想」『東海道戦争』『ベトナム観光公社』など、その発想のはちゃめちゃぶりが、いつもファン同士の喫茶店での話題になった。また、それ以上に、筒井氏が編纂した恐怖短編のアンソロジー『異形の白昼』の影響も地味ながら無視できないと思う。
 この立体展示を見ると、筒井さんがいかに広範囲な読書をしているかが分かる。
 図録の中に筒井さんを一言で評して『スタア』である、とした一文があった。
 たしかに端正な容貌とダンディなファッション、舞台に立ち、テレビも出るフォトジェニックなところがあって、まさに「スタア」でいいのだが、僕には、そういう一見華やかな雰囲気を身にまとわせながら、その実は「凄みの人」としか言いようがない感じがしてならない。
 「小説を書くとは、もはや無頼の世界に踏み込むことであり、良識を拒否することでもある」というのは、『創作の極意と掟』の一節で、この展示会場の入り口にも貼りだされたテーマだが、たしか筒井さんはこうも言っていたように思う。
 「小説を書こうと決意した瞬間から、その人の人生は凄みがます」
 そういう意味で、あらためて筒井さんの作品群の変遷を眺めると、いつの時代にも「凄み」を効かせつづけてきたように思う。百万人が行く道を選ばず、あえて独自の道を探り続ける、本当の意味での「文士」ということだ。
 この展覧会は十二月九日まで。途中に音楽家の菊地成孔氏、タレントの中川翔子氏との対談、筒井氏自身による朗読会、筒井氏主演の舞台などの映像上映会、筒井氏関連の書籍だけを集めたミニ古本市などのイベントも組まれている。