土曜サロン

「書肆アクセスという本屋があった」
土曜サロン・第一八九回
二○一二年十月六日

 神保町のすずらん通りにあった書肆アクセスがなくなったのは2007年11月17日のこと。十坪ほどの小さな店だが、地方小出版流通センターのアンテナショップとして本好きには有名な書店だった。閉店を惜しむ常連たちによる『書肆アクセスという本屋があった』(岡崎武志・柴田信・安倍甲編『書肆アクセスの本』をつくる会発行)も話題にもなった。多くの読書人に愛された書肆アクセス最後の店長・畠中理恵子さんを土曜サロンにお迎えした。
 地方小出版流通センターは「出版表現の自由は、流通の自由があってこそ」という趣旨で1976年に設立された。大手取次の扱わない地方の出版物や小出版社、ミニコミの流通をつなぐ中間取次であり、小売書店「展示センター」も併設した。当初は社会問題の出版物を扱うことが多く、原爆、戦争、沖縄、満州などのフェアを展開していたという。1980年に書肆アクセスに改名、翌年すずらん通りに移転した。
 畠中さんは子どものころから本が好きで、本のそばで働きたいと思っていた。大学卒業後、池袋の西武百貨店内にあったアール・ヴィヴァンというアート系洋書店に就職。セゾン文化全盛のころで、ニューアカデミズムや現代芸術の洗礼を受ける。その後、「神保町で働きたい」と1988年、地方小出版流通センターへ転職。書肆アクセスの店員となり1994年から店長を務めた。
 「書店の仕事って、本は重いし、汚いし、店も狭い、ホコリだらけ。給料も安い。まるで3K(笑)。でも楽しかったんですね。
 1970~80年代というのは福岡の葦書房や青森の津軽書房、秋田の無明舎出版、出版王国信州の版元、そのほか地方の新聞社や大学でも出版が元気だった時代です。独特の魅力ある地方出版人たちが会をつくったり、ふるさとブームがあったり、東村山市立図書館が郷土史や地方出版物を収集して有名になったりしました。文学系でも特色ある小出版社、奢覇都館、深夜叢書社、静地社、編集工房ノアなど人気がありました。
 当時のアクセスは、学術書や民俗学の本が売れ、ある程度の売り上げがあったんです。でもバブルが終わって神保町にも再開発の波が押し寄せてきて、町が変貌を余儀なくされてくる。大丈夫なのかな? と思い始めてきました」
 長い不況で、書店も減少、本の売り上げは落ちる一方という時代になってしまった。
 「たぶん神保町でしか成り立たなかった本屋なんです。ヘンな言い方ですが『こんな本を見つけたい』『こんな本を探したかった』っていうお客さんが多かった。神保町って本のことをよく知っていて、しかも膨大に買う方たちが集るなんですね。で、本のことを何も知らないわたしたち書店員が、そういうお客さんに『こういう本ありませんか?』って尋ねられて、話を聞いてアクセスに合いそうだと思うと、版元に手紙や電話、メールで問い合わせて扱う。買切りしかダメと云われると、会社にナイショで買ってみる(笑)。たくさん勉強させていただきました」
 1990年代以降は、ワープロやパソコンが普及し、個人でもクオリティの高い本をつくれるようになってくる。こうしたミニコミ、自費出版物を制作者たちから直接仕入れ、販売することも増えてくる。『谷根千』『sumus』『modernjuice』、等々、最終的には250組もの委託取引があった。「産地直売ですよね」と畠中さんは笑う。店内で知り合いに会うことも多く、アクセスに行けば誰かに会える。本好きのあいだではそんな一種のサロンと化していたようだ。
 「でもインターネットだけでなく、いろんなことが自由化し多様化して、残念なことにアクセスは時代遅れになってしまったのかもしれない。わたしたちの努力が足りなくて閉店という結果になったのですが、でも非常に幸せな時間でした。なによりお客さんの愛情をいっぱいいただきました。本屋というのはただ本を買う場所というだけでなく、人と人の出逢いの場、コミュニケーションの場なんだということをアクセスを通して教えてもらいました」
 書肆アクセスの人気は、こんな畠中さんのお人柄によるところも大きかった。アクセス閉店後、畠中さんは東京堂書店に勤められたが、その後、地方小出版流通センターに戻り、事務のお仕事をされている。またなんらかのかたちで、本と人、人と人との出逢いの場に立っていただきたいと思う。そう願うのは筆者ばかりではあるまい。アクセスで扱ったミニコミを、いとおしそうにたくさんお持ちくださった畠中さん、ありがとうございました。
[参加者]石井春生、加納一朗、新保博久、直井明、本多正一(文責)
[オブザーバー]佐藤健太、末永昭二