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マジで「月火上海」

山口恵以子

「どうしても山口さんが上海に立っている絵が欲しいんです!」
「……CG合成じゃダメですか?」
 喉元まで出かかった言葉を呑み込んだのは、「ソロモン流」プロデューサーの怒濤の寄り身に抗しきれず、敢えなく土俵を割った後だったからだ。
 自慢じゃないが私は五十五歳の海外処女。飛行機に乗ったことすらない。四国より遠い国に行ったこともない。量産した「旅情サスペンス」のプロットはすべて「るるぶ」を片手に書き、現地に行ったことは一度もない。それがどうして今更上海へ……。
「とにかくパスポートさえ取ってくれれば、後は全部こちらでアテンドしますから」
 そんなわけで九月の初め、一泊二日で上海に行って参りました。マジで「月火上海」。ちなみに私の本業は「社員食堂のおばちゃん」で、今現在スタッフが一人負傷離脱中のため、二泊三日の余裕無し。
 午前六時半、京成成田空港駅にて「ソロモン流」のディレクターIさん、カメラマン、女性プロデューサーNさんと合流。私は完全に「ちっちゃい子」状態で、すべてNさんにお任せ。
 ぶっちゃけ、上海行きより成田から家まで往復する方が大変。何故こんな不便なところに空港を作ったのか? 利権でしょうね。
 初めての飛行機は快適そのもの。宙に浮かんでいる感じ。中国に近づくにつれ、眼下に見える雲が白から灰色に。真っ青だった海が濁った緑色に変わる。最後は黄土色。船が浮かんでなければ陸かと思う。この海に墜落するのだけはやめて欲しいと真剣に願った。
 十一時半、上海空港着。コーディネーターHさんのバンで市街へ移動しながら、車内でバーガーキングの昼食。
 上海は連日四十度と聞いていたが、着いたときは三十二〜三度で、覚悟していたほどの猛暑ではない。中心部はケパイ高層ビルが建ち並び、東京の町並みが上品に思えるほど。
 市の中心部・バンドに到着すると、小説「月下上海」の舞台となった場所を背景にロケが続く。遊覧船で黄甫江を遡航し、キャセイ・ホテルの客室に座り、今は高級ホテルとなっている日華倶楽部を眺め、瀟洒な高級住宅の建ち並んでいた元フランス租界を散策し、ヒロインと同じ光景を目にした。
 現実の上海は私が想像していた上海とほとんど変わらなかった。バンドのビル群の威容も、キャセイホテルの豪華なロビーも、おとぎの国のお城のような日華倶楽部の全景も、その佇まいから七十年の歳月を差し引けば、小説の風景と重なり合う。
 ただ、一つチョンボ。キャセイホテル七階の客室からは、階下部分の張り出しが邪魔をして、窓から夜景は眺められない。Hさんに「新築のビルがなければ南京路が遠くまで見通せるので、夜景はきれいなはずですよ」と慰められる。ま、いいか。
 夜は小説に登場する「紅焼肉」を食べに圓苑というレストランへ。ガイドブックにも登場する素敵な店で、上海家庭料理の定番・紅焼肉がおしゃれに変身。他の料理も美味しかった。
 帰りにホテルの近くのコンビニで酒を調達。店内には強烈な八角の香りが漂う。おでんに八角を入れていることが判明。
 ホテルは南新雅大酒店(MAJESTY PLAZA)。ダブル仕様のシングルユースですこぶる快適でした。朝食バイキングはさすが中国で、通常の朝食メニュー以外に、麺類と点心がいっぱい。「黄油」というポーションはバター、それともマーガリン?
 翌日は十一時まで出番がないので、私とNさんはHさんの助手F君の案内で長楽路へ。チャイナドレス店が十店以上軒を並べている場所で、中でもひときわ大きくて上品な店構えの金糸玉葉へ入る。二十分で四点選んで試着し、二点購入。Nさんに決断力を褒められ「チャイナドレスのイメージが変わった」と感心された。そう、金糸玉葉にはおしゃれでシックなチャイナドレスがいっぱいある。
 十一時から炎天下のバンドでロケ。ファッションビル内にある広東料理店で昼食。Iさんは店の片隅で母親が子供にウンチをさせているのを目撃したそうで、絶句していた。Hさん曰く「上海の人は洗練されているけど、地方から来た人がね……」
 店の中で大声で話す人、エレベーター内で携帯電話に怒鳴る人、数えきれず。それに上海の道路は車間距離が近い。車体の脇すれすれを車が走ってゆく。事故も多発しているらしい。
 私とNさんは一日早く帰国するため、そのまま空港へ向かう。
 生まれて初めての海外が、私の運命を変えてくれた小説「月下上海」にちなんだ土地というのは、これも何かのご縁でしょう。いつかゆっくり来たいと思った。
 後日談。チャイナドレスを買ったおつりが六百元ほど残っていたので、お世話になったF君に「日本じゃ遣えないから、記念にもらってね」F君は固辞したが周囲に勧められて受け取った。帰国翌日、たどたどしい日本語でお礼のメールが……。そしてIさんに託して中国茶のプレゼントも。F君、ありがとう。元気でね。