ずいひつ

編集の「道」

本多正一

 昨年のことだが、編集に関するインタビュー本で考えさせられることがあった。商業出版社の編集者が担当した著者を回想するにあたって、どこまでプライバシーに踏み込むことが許されるのかということだ。
 編集者が著者と接し、密なつきあいを続けるにあたって、家族、親族、友人関係、経済状態など、私生活上のさまざまな領域に関与することは考えられる。しかし著者の没後、そうした経緯を職業的編集者がひけらかすのはいかがなものか。職務の遂行上、知り得たプライバシーなのにである。
 そのインタビューは雑誌掲載時点で不審に感じていたので、単行本化に際し両著者(インタビュアーならびにインタビューイ)にゲラのチェックと事実関係の確認を依頼した。結果、単行本では指摘した部分がばっさり削除された。しかし故人に対する謝罪も、雑誌掲載部分を第三者(本多)の指摘のうえ削除したという経緯の説明もなかった。もし筆者の指摘がなければ、そのまま単行本化されてしまったのにである。
 再読して驚いたが、そのインタビューでは故人の著者が法的根拠に基づき弁護士をたて取得した金銭についても、「せしめて」という評言が使用されていた。「せしめる」というのは「うまく立ち回って自分のものとする。よこどりする。かすめとる。」といった意味である(『広辞苑』)。またこの編集者は故人の未発表私信を無断で宣伝に用いたこともある。それこそ「せしめる」であり、これは著作権以前の公表権の侵害である。
 この件は一人、この著者ばかりのケースではない。拙文を読んでいる推理作家協会会員の皆さんが亡くなられたあと、ご遺族や著作権継承者が直面する課題でもある。企業コンプライアンスという用語が使われるようになって久しい。両著者からは誠意ある回答がない。活字化した出版社、またその編集者が所属した出版社に対応を求めている。