土曜サロン

土曜サロンレポート
二〇九回土曜サロン 二〇一六年三月十九日

本多正一

「私たちは苦しみ得ない卑怯者なのだ。私たちは苦悩を避け、排除することばかりに心をくだく臆病者なのだ。だからして「苦しむためには才能が要る」(北條民雄)のであり、苦しむ才能によってのみ生きることを決意したものは、らい患者だった、ということだけは忘れまい。戦前の日本にもらい患者という「ユダヤ人」はいたのであり、アウシュヴィッツは日本国内にも存在したのである。」(西井一夫『新編「昭和二十年」東京地図』ちくま文庫)

 二〇一六年三月十九日の土曜サロンは東村山市にある国立療養所多磨全生園、ハンセン病資料館での開催となった。北條民雄が収容され、名作『いのちの初夜』に描かれた舞台でもある。講師は神奈川大学大学院時代からハンセン病史、ハンセン病文学を研究されてきた佐藤健太さん。佐藤さんは多数のハンセン病関連書籍の編纂にも関わり、『ハンセン病 日本と世界』(工作舎)にも論考を執筆している。
 ハンセン病はらい菌によって主に末梢神経と皮膚が冒される慢性感染症だが、容貌と四肢に変形をきたすことから忌み嫌われ、長い間、偏見と差別にさらされてきた。日本では一九〇七年に「癩予防ニ関スル件」が制定され患者は隔離の対象とされ、一九九六年に「らい予防法」が廃止されるまで九十年もの間隔離は続いた。経口薬で完治するようになった戦後も、ハンセン病者たちはいちじるしい人権侵害にさらされ続けてきた。
 多磨全生園は一九〇九年に開園、当時まわりは人里離れた林野だった。療養所へ入る時、多くの患者は家族・親族を偏見から守るために園名という偽名を名乗った(北條民雄も没後百年にあたる二〇一四年、「本名が出ることで勇気づけられる人がほかにもいると思う。偽名から存在を取り戻すように」との親族の理解を得て「七條晃司」と本名が明かされた)。所長には懲戒検束権が与えられ、無断帰省・外出など秩序を乱す患者は監禁室に入れられるなど、厳しい管理体制下にあった。また人手不足を補い療養所運営のための様々な作業を患者が担うなど、療養のみに専念できる医療環境ではなかったのである。

 当日午後1時半、参加者はJR新秋津駅改札口に集合。そこからバスに乗って全生園前で下車。まずは多磨全生園内を散策する。初めての訪問者が驚かされるのは仏教、キリスト教などの宗教施設が複数集まっている区域だろうか(神社だけは別の場所にある)。入園者は何らかの宗教に帰依していて葬儀は各宗派によって執り行われる。政策は年少者にもおよび、家族から離れて暮らした少年少女舎も荒れ果てたまま残され無惨極まりない。一度入園すると社会復帰は困難で、「望郷の丘」とよばれる故郷をしのんだ小高い丘もある。
 再建された男性寮「山吹舎」(北條民雄が入っていた舎を復元したもの)もある。十二畳間に六~八人が同居するものであったようだが、最新の技術で建て直されたもので往事をしのぶことは難しい。当時、園内で結婚した夫婦は狭い寮内での共同生活を余儀なくされ、ちゃぶ台などをついたてとして夫婦生活を営む惨憺たる状態であった。しかも結婚するためには断種(手術によって生殖能力を失わせること)が絶対条件であり、妊娠が発覚すると堕胎が強制された。
 一九九六年にらい予防法が廃止されたが、園内にはまだ元患者の方たちが住まわれている。共同浴場やショッピングセンター、郵便局なども園内にある。
 東京ドームが8個はいるという広大な敷地を歩いたあと、全員で施設内にある「俱会一処」と記された納骨堂に合掌する。開所以来、四千人ほどの遺骨が眠っている。「建立のことば」にこうある。「一度収容された者は、二度と社会の土を踏むことができず、家族との絆も絶たれ、死後ふるさとに骨を埋めることもできなかった。」

 二〇〇七年に開館したハンセン病資料館は、旧高松宮記念ハンセン病資料館を改装したものである。ハンセン病に関する資料や図書の保管保存を目的とし、展示ブースも広く、ハンセン病に知識のない人にもわかりやすく懇切な案内が用意されている。二十二名が死亡した監禁室も再現されており、過酷な状況が想像できる。入場無料、展示図録なども豊富に配布しているので、ぜひ皆さんのご来場をお願いしたい。
 長年、ハンセン病と文芸の関係を研究してきた佐藤さんによれば、
「日本のハンセン病療養所では文芸活動が盛んで、世界に類を見ない規模である。日常の無聊を慰めるために奨励され、いまも少人数ながら俳句、短歌、詩を愛好する人がいる。文芸活動の主な発表の舞台は通称「機関誌」と呼ばれる定期刊行物だった。多磨全生園では一九一九年から『山櫻』を発行、『多磨』と改称した現在も続いている。多磨では機関誌の編集・印刷などの作業も病者たち自身によって担われ、『山櫻』出版部には文学に魅せられた病者たちが集まった。全国のハンセン病療養所入所者を対象としたコンペティションである「文芸特集号」が毎年一回組まれ、療養所外のプロの作家たちが作品の選定にあたった。戦前の創作部門選者は木下杢太郎、式場隆三郎、豊島与志雄、正木不如丘ら、戦後では安部公房、阿部知二、野間宏らが担当した。
 療養所における文芸活動は、病者たちにとって外部への発信や交流を可能にする重要な営みであった。文章を綴るという営みが療養所の垣根を越えるひとつの手段だったのだ。館内の図書室では関連文献を所蔵していて、一部は貸し出しもおこなっている。機関誌のバックナンバー、当事者の手記、ハンセン病に関する研究論文・研究書など多岐にわたる。ハンセン病に関心を寄せるひとたちがこの膨大な文献にアプローチする手がかりとなるように、「ハンセン病を学ぶためのブックガイド」を作成した。ご希望の方は佐藤健太までご連絡ください。」
 とのこと。遠慮なくご連絡ください。
 今回、協会事務局を離れての土曜サロンとなったが、通常より参加者が多く、解散後も全員が連れ立って園内にある永代神社を参拝して帰途についた。おそらく参加者全員、それまでの人生で考えることのなかった様々なことに想いを致す意義深い一日であったように思う。
 学生時代から真摯にハンセン病問題、元患者の皆さんとおつきあいを続けてきた佐藤さんに改めて御礼と感謝を申し上げます。ありがとうございました。

 ところで土曜サロンだが、推理作家協会の催しながら明確な規定に乏しい。江戸川乱歩主宰の土曜会以来を熟知しておられる加納一朗氏主導のもと、ここ十年ほどは本多ほか二名が講師の依頼をおこなってきた。ゲストに偏りがあらわれるのは本意ではなく、協会事務局に自薦他薦を問わず、講師推薦をお寄せ頂ければ幸いです(些少ながら規定の謝礼がでます)。基本的に協会事務局での開催だが、例外的に本レポートのような外出もあり得ます。会員の皆さん、どうかよろしくお願いいたします。