松坂健のミステリアス・イベント体験記

健さんのミステリアス・イベント探訪記 第73回
白熱の論戦が話題。法廷劇の究極を見せられたシーラッハ原作『テロ』の上演
2018年1月16日~28日
 紀伊國屋サザンシアターTAKASHIMAYA

ミステリ研究家 松坂健

 法廷劇は本当に面白い。
 弁護側と検事が「論理の秘術」を尽くして渡り合う様は、ヘビー級のボクシングを見ているような緊張感を味あわせてくれる。
 1月16日~28日、紀伊国屋サザンシアターで上演された『テロ』は、出てくるのが被告、裁判官、弁護士、検事、証人二人、そして廷吏だけという純粋な法廷ドラマで、重厚なテーマをめぐり、検察、弁護双方が一歩も引きさがらないファイトぶりで、3時間弱の長丁場を一気に見せてくれる。
 原作は、現代ドイツで犯罪をめぐる深い思考を展開しているフェルディナンド・フォン・シーラッハの『テロ』(東京創元社)。
 シーラッハは現役の刑事弁護士。法廷で活躍するかたわら、犯罪が持つ不条理さをきわめて節約された文章で綴った『犯罪』(2009)で脚光を浴び、以降、『罪悪』『コリーニ事件』『禁忌』とたてつづけにベストセラーを放っている。今、ドイツではセバスティアン・フィツェックと並ぶクライム部門の二大リーダー格というところか。
 そんなシーラッハが温めてきた極悪の犯罪、テロをめぐる容赦ない「二者択一」のドラマを描いたのが、この初戯曲だった。
 2013年7月26日、ベルリン発ミュンヘン行きのルフトハンザ機がハイジャックされる。テロリストたちの目標はミュンヘンのサッカースタジアム。7万人の観客がいるところに自爆攻撃を敢行しようとの目論見だ。
 そのハイジャック機を追うのがドイツ空軍少佐のコッホ。彼はこういう緊急時に定められている手順でハイジャック機に警告などを行ったが、反応がなかった。そして、機はスタジアムに向けて機首を下げた。もう待てない、その瞬間、少佐は空対空ミサイルを発射し、ルフトハンザ機を撃墜した。結果的に、少佐は164名の乗員の命を奪って、7万人のサッカー観戦客を救ったことになる。
 2001年9月11日のあのテロ事件をきっかけにドイツでも自爆テロ型ハイジャック機に対する処置を定めた航空安全法が定められ、公布され、それによると戦闘機パイロットはこういう事態では、航空機を撃墜してもよいとされていた。
 しかし、この法律は犯罪者ではない、普通の民の殺害を公に許可する性質のもので、論争が繰り返され、結局、公布後一年で連邦憲法裁判所が、この撃墜命令は違憲であると退けたのである。つまり、少佐の行為は憲法上では「殺人罪」になっている。だから、今、被告として法廷に引き出されている。
 法廷は事件の事実としての一部始終を空軍参謀将校ラウターバッハ中佐に語らせ、さらにルフトハンザ機で亡くなった男の妻が、墜落寸前に受けた携帯ショートメールについて証言する。そのメールには、乗客がコックピットに向かって反撃する旨のことが残されていた。もちろん、コッホ少佐にそんな機内の様子はまったく見えないのだが。
 164人を犠牲にして7万人を救ったコッホ少佐は英雄なのか単なる犯罪者なのか?
 憲法で一人の命と何万人の命だろうが、それを比較して軽重を考えてはならない。これが検察側の論理の骨子だ。一方、弁護側は超法規措置ではあっても、より悲惨な結果が予見できるとき、神のような判断を強いられたパイロットの判断こそが人間的で勇気のある行為だと主張する。
 多数を救うために一人を殺してもいいかという問題は、暴走する列車(トロッコ)が一人を殺すことで、大事故になるかもしれない列車を救うという場合の二者択一を考える「トロッコ問題」として20世紀の初めからたびたび論議されてきたことでもある。シーラッハはその最も現代的なバージョンを提案したことになるが、背景にテロリズムというきわめてリアルな実態があるだけに、議論は切実そのものだ。最終弁論で「今はまだ世界は戦いのなかにあるのです」と弁護側が主張することも考えなければならない。ことはもう哲学の領域をこえて、現実問題になっているわけだ。
 証人喚問を終えたところで一幕目が終わり、そして二幕目は検察側、弁護側の最終弁論が披露される。そこでまた休憩が入るのだが、それはこのお芝居の観客の投票タイム。この劇では観客が、ドイツ法廷における参審員の立場に擬せられている。裁判官の判決は参審員たちの評決結果(多数決)に委ねられているという趣向だ。
 第3幕でその評決が明らかにされる。裁判官の弁論は有罪の場合と無罪の場合、両方とも用意されている。
 いわばマルチエンディングだが、こういう趣向の元祖はアイン・ランドという人が1934年に書いた”Night of January 16th”(未訳)といわれている。観客に無罪か有罪かの旗を持たせて掲げさせたという。最近ではジェフリー・アーチャーが1987年発表した『無罪と無実の間』の日本公演で、この趣向が採用されている(原作にはない)。
 さて、今回の『テロ』の判決は?
 僕が見た1月27日マチネでは、有罪評決。票数は有罪223票、無罪203票。僅差だった。
 ちなみに、この公演のホームページを覗いてみると、毎回の投票結果が出ている。僕が見た限りでは1月16日から25日までの12公演で、有罪6回、無罪6回と拮抗している。
 世界で見ると、これは圧倒的に無罪に傾いている。フランクフルト公演は全24公演中有罪はたった一回のみ。ウイーンでは10回中有罪はゼロ。ロンドンも33回公演で有罪はゼロ。アメリカでも113回公演のすべてで無罪。全得票数も有罪932票に対し無罪1845票とほぼダブルスコアだ。日本では2016年に主演の橋爪功さんが一人芝居でやった4公演すべてで有罪評決、得票数は有罪が958、無罪が569となっている。日本の方がむしろ世界の判断と逆になっているのが面白い。
 考えてみると、その昔、ダッカハイジャック事件では、ときの内閣が「一人の命は地球よりも重い」として、入獄中の赤軍テロリストと乗客の交換を超法規措置としてやって、それを非難したのが英米だったことを考えると不思議な気持ちになる。
 ともあれ、自分自身の判断はさておき、論理の応酬がもつ戦いの爽快感に酔わされた舞台だった。