土曜サロン

『シンデレラの罠』を改訳して
土曜サロン・第一八七回
二○一二年五月十九日

 セバスチャン・ジャブリゾの『シンデレラの罠』は一九六四年一一月に東京創元社から刊行され、幾度か装丁を変えて読み継がれてきたが、二○一二年二月に改訳された。二○一二年五月の土曜サロンは『シンデレラの罠』の翻訳者である平岡敦さんをお招きして改訳についてお話を伺った。
 平岡さんが旧訳版でこの作品を読まれたのは高校生の頃だという。衝撃を受け、フランスミステリに興味を抱くきっかけにもなられたそうだ。その後しばらくして旧訳と原文を照らし合わせる機会があったが、誤訳の多さに驚かされた。オールタイム・ベストにも選ばれるほどの作品なのに誤りが多いのではこの作品の真価が伝わらないのではないかと思い、改訳を出版社に提案した。
 ただし、あとがきでは誤訳という言葉はいっさい使ってない。誤訳ということを前面に打ち出すと、そちらのほうに関心が向けられてしまうかもしれないので、それは避けたかった。それよりも作品の再評価につながるような気持ちで改訳を手がけたという。
 この作品といえば、あの有名な冒頭の内容紹介文──わたしはこの事件の探偵です。そして証人です。また被害者です。さらに犯人です。わたしは四人全部なのです。いったいわたしは何者でしょう?──である。《わたし》が誰であるかについて結論は出ているとされてきた。しかし本当にその結論でいいのだろうか。
 今まではある品物の名前が決め手とされてきた。だが、冒頭のおとぎ話の語り手が誰であったかを考えると、それは決め手につながるとは思えない。語り手がどちらの娘でも話の筋はすっきり通っているからだ。結局、語り手は誰であったのかという不安感が残される。実はそれが作者の意図だったのかもしれない。一人四役という点が着目されているが、むしろ謎は解かれているのに解かれてないというのがこの作品の大きな読み所ではないだろうか。
 ただ旧訳と改訳を比べるとニュアンスの変わってしまった箇所も多い。これは旧訳の翻訳上の問題によるものだが、そのため旧訳では作者のこうした試みが分かりにくかったかもしれない。既読の方もぜひ新訳でもう一度この作品を読み直してほしいと思う。
 なお原題は『シンデレラのための罠』であるが、ジャブリゾ自身はタイトルについてはとくに語ってないが、邦題の『シンデレラの罠』のほうがいろいろ解釈できるように思える。また英語版では冒頭の御伽噺の部分がカットされている。このあたりはサスペンス小説における英米とフランスの考え方の違いなのかもしれない。
 『シンデレラの罠』は一九六四年にアンドレ・カイヤットによって映画化もされている。日本では一九六八年、オードリー・ヘップバーン『暗くなるまで待って』と同じ頃に封切られた。映画版の結末は原作と異なるそうだが、日本はもちろんフランス本国でもビデオやDVD化はされてない。日本では今も読み継がれている作品であるだけに映画が観られないのは残念なので、そのうちどこかで再上映されることを願ってやまない。

【出席者】加納一朗、新保博久、直井明、西上心太、日暮雅道、長谷川卓也、平山雄一、石井春生(文責)
【オブザーバー】佐藤慶子、沢田安史、廣澤吉泰