魅力的な文学賞のこと
川口則弘
真保裕一理事、鈴木輝一郎会員からご推薦を賜り、新たに入会することになりました川口則弘です。ふだんは「直木賞のすべて」「芥川賞のすべて・のようなもの」「文学賞の世界」といったホームページを運営しています。文学賞より面白いものなど、この世にひとつもありませんが、文学賞のことで知らない話はまだまだたくさんあります。おそらく文学賞やそれにまつわることを調べるうちに、私の一生は終わるでしょう。
とくに私の好きなのは直木三十五賞、通称でいうところの直木賞です。どうあってもこれだけは揺るぎません。しかし文学賞としての面白さで考えたとき、今年で七十回目の日本推理作家協会賞もまた、けっこう侮れないものがあります。
一般に文学賞というと、「権威」という薄っぺらい概念に集約されることがあります。それが誤っている、とまでは言いませんが、文学賞の一側面でしかないのは、たしかです。一回ごとの選考、もしくは一つずつの候補作に対して、別々の個性をもった人間たちが多彩な感情をもって判断をくだす現象があり、さらに多くの人間たちがさまざまな立場からその結果に接し、バラエティーに富んだ感想を抱く。……われわれの社会を形成するすべての要素を含んだ生態がそこに幾層にも積み重なっている、と言ってもよく、歴史を経れば経るほど文学賞が面白くなっていくのは、まず自然のなりゆきでしょう。
ここでひとつ個人的な体験に触れてみます。二十数年前、私がはじめて協会賞に惹きつけられたときの話です。
この賞には、かつて「評論その他部門」と呼ばれた「評論・研究部門」という顕彰枠があります。ヒョウロンとかケンキュウとか言うと、いかにも御大層で偉そうです。私自身も真面目ぶったものは大嫌いですが、しかしそういう単語のイメージで括ることのできない候補作(受賞作ではない)が歴代ずらりと並んでいる。それがこの部門のいいところです。
社会人になったばかりのころ、たまたま立ち寄った古本屋で高橋俊哉『ある書誌学者の犯罪 トマス・J・ワイズの生涯』(河出書房新社刊)を見かけたとき、思わず手にとってみたのは、これが協会賞の評論その他部門で候補になったことがある、という記憶が頭の片隅にあったからです。家に帰って一読したところ、十九世紀後半から二十世紀にかけてのイギリスを舞台に、古書蒐集に魅せられてその道の大家となった男の、偽造本をつくっては流布させる克明な過程から、ついにその犯罪が暴かれていくさまを、丹念に冷静に語る著者の筆さばきにゾクゾクが止まりませんでした。
以来この賞の同部門で候補に挙がったものは、なるべく気にして読むようになって、現在に至ります。溝口敦『消えた名画 「ダ・ヴィンチ習作」疑惑を追う』(講談社刊)とか、山崎光夫『藪の中の家 芥川自死の謎を解く』(文藝春秋刊)、末永昭二『貸本小説』(アスペクト刊)など、「ミステリーの賞」という領域で議論されるのは酷だなと思えるくらいに、枠をはみ出す妙味に満ちた作品をいくつも知ることができたのは、協会賞のおかげです。何より「文学賞に注目するなら、まず受賞作を読まなくちゃ」という感覚がいかに偏向したものか。つくづく思い知らされました。
そういう意味では、「いかにも文学賞らしいですね」と大半の人が納得するような、妥当な作品ばかりを選ぶ文学賞は、残念ながら魅力がありません。妥当の枠を突き抜ける。もちろん最終的に受賞作を決める選考委員の判断も大事でしょう。しかし賞の面白さを左右する重要な鍵は、何よりも候補作のラインナップが握っています。
候補を選ぶ、つまり予選を託された人たちに「いかにも文学賞らしい」作品を本選に上げようとする感覚が蔓延したとき、賞は単なる制度となって硬直し、みるみる輝きを失います。最終選考会で「何でこんなものを候補にするんだ」と問答無用で落とされる。そんな作品がしばしば候補に残るような賞でなければ、何となく惰性で継続している(としか思えない)凡百の文学賞の海に埋没していくことは、まず避けられません。
……と、私はいつもこんなことばかり言っています。常識的な感覚からすると、関係のない人間が文学賞に興味をもつのは卑俗なことらしく、「変り者だね」と、たいてい鼻で嘲笑われます。
「文学賞がこの世でいちばん面白い」という、あまり他人に共感されない趣味趣向を持っていると、あきれられたり馬鹿にされたりすることは、たしかにたびたび経験します。ただ、暴力を振るわれたり金品を巻き上げられたりは、まだ一度もありません。入会を許してくれる当協会があるように、まあ別にそこにいていいよと見守ってくれる社会環境のおかげで、いまも安穏と文学賞を楽しめています。このまま一生を終えられたらいいなと思います。