新入会員紹介

入会のご挨拶

矢神涼

 小学四年の時、大藪春彦氏の「野獣死すべし」を読んだ衝撃は今も忘れられません。今にして思えば十歳の小僧には男女の機微など、意味不明な部分もありましたが、それが理解できずとも、一文一文に刻まれた迫力は伝わり、体が熱く、そして時に冷たくなりました。大藪作品を読みあさり、やがてチャンドラー、ハメットにハマりました。ハード・ボイルド・スクールはアメリカ文学の一つの金字塔です。
 やがて北方謙三氏の一連の作品に出会い、毎年発表されるサントリーミステリー大賞の受賞作を片っぱしから読みあさる生活に変わりました。以来、読むのはすべて日本人作家です。ハードボイルドはアメリカのお家芸ではありません。日本にもハードボイルドは存在します。私の書く小説をジャンルで言えば、推理小説でもミステリー小説でもない、エンターテインメント小説です。でも、ハードボイルドです。生島治郎氏の説くハードボイルドの定義は『自分のルールを変えない』こと。ジャンルに関わらず拙作で描く登場人物には、頑なに守らせるよう心がけています。私生活の自分には決して真似できませんので。
 さて、私のような半端な物書きが何を申しましても、歴々の諸先輩方にとりましては戯れ言にしか聞こえませんので、私の履くもう一足のワラジである外科医としてのお話を少々。昭和六三年に大学を卒業後、母校の第一外科学教室で一年間、一般消化器外科の研修を終えたのち三年間、市中病院の一般消化器外科に放り出されます。一次出張という名目の武者修行の旅です。たまたま配属された出張先の病院は野戦病院さながらで、消化器外科の修行に出たつもりが、心臓血管外科、脳外科、麻酔科、整形外科から産婦人科まで、人が足らないと言っては手伝いに駆り出されます。得難い経験をさせていただいたと言えるのは今になってからで、往時は目の回る忙しさでした。家に帰れないのです。職員食堂で放射線科の部長と相席になった時、この二週間、目と鼻の先にある宿舎にすら帰ってないとグチをこぼすと「あんたレジデントですやん」。医者の世界では若手のことをそう呼ぶのですが、「レジデントの元々の意味を知ってはりまっか?」「さぁ…」「レジデンス は住居。つまりあんたらは『住み込み』ですわ」。納得と同時に諦めでした。
 しかもあろうことか、私が赴任して一年目が終わる頃、それまで病院になかった救命救急外科部門を新設することになり、ちょうどエエからおまえが部長やっとけと、医者になってまだ三年目のヒヨッコが、本来なら十五年とか二〇年といったベテランが座るポジションに据えられました。どう考えても無茶苦茶な話で、居心地悪いったらありゃしません。その病院に在籍する私の年季は三年と決まっていました。大学から若いのがひとりやってくると、トコロテンのように、上がひとり大学に戻っていきます。そういう連中をローテーターと呼びます。あと二年で大学に戻らねばならないローテーターを、新規創設した科の部長に据えるなど今の時代ではあり得ません。ところが当時の院長ときたら、どこ吹く風とばかりに「あと二年のうちにちゃんとした救命救急医を見つけてくるから、それまでアンタ部長やっときなはれ。それにアンタ救急、好きでっしゃろ」で終わりです。そしてその後二年間、結局、本物の救命救急医は登場せず、私が大学に戻る時には定年間近の心臓血管外科部長から、お前が大学院に合格したりするからワシが代わりに兼任せにゃならんと、さんざんグチられました。
 そしてその頃から、私は毎晩、宿直の時も家にいる時も、手術着を着て寝るようになりました。医療ドラマで出てくる、上下サックス・ブルーで半袖の、我々の用語ではスクラブと称するのですが、いつ呼び出されてもその上から術衣を着れば手術に入れる、常に臨戦態勢です。週にいちど病院のオペ場の洗いカゴに放り込んで、また洗いたての新しいのを持って帰るので、洗濯の手間もかかりません。独身の私にとってはありがたいことでしたが、その習慣はこの歳になっても変わっていません。ただし、結婚した時にカミさんからはさすがに、一緒に寝たくないから、手術室のを持って帰ってくるのはやめてくれと言われ、身銭を切って新品を買いました。
 そんなこんなの切った張ったの世界で十年が経ち、生まれ故郷で独立開業することになって二十二年が過ぎました。谷あり谷あり、たまに山ありの町医者人生ですが、日本推理作家協会への入会をお許しいただけたことは、私にとっては大きな山の頂上に立てた気分です。半世紀にわたる夢が叶ったのですから。お認めくださった理事の先生方、そしてご推挙いただいた高殿円先生、吉田伸子先生にあらためて厚く御礼申し上げます。細々とではありますが、協会員として恥じることのない作品を描き続けていく所存ですので、皆様どうぞよろしくお願い申し上げます。