北原さんのこと
北方謙三
北原さんが、推理作家協会のメンバーであることが判明したのは、いつだっただろうか。判明というのもおかしな言い方だが、推協とはちょっと外れた位置取りの印象が私にはあって、いささか驚いた。
「私が書いてるものに、ミステリーの要素がないとでも思ってるの?」
お姉さまは、そう言って私の認識不足を責めた。当時私は、常任理事か理事長であり、つまり幹部が知らないとはなにごとか、と叱られたのであった。私は、酒を一杯ぐらい奢らされたと思う。
酔って話すのは、江戸時代のことが多かった。木戸番の呼称で、遣ってはならないものがあり、それでも遣っている大衆小説がかなりあり、片っ端からその題名を挙げていったこともある。北原さんは、決して遣わなかった。確信犯などという、私には常套手段のやり方とは無縁で、ある節度の中で、その小説世界は作られていた。もうひとつ言えば、ある清らかな諦念のようなものが世界には通底していて、それが読む者の心に、切なさを投げかけてくるのだった。決して派手ではなく、しかし厳しく、江戸期の市井を通して、人の姿を描写し続けた。一隅を照らすという言葉が、まさにぴったりの小説世界であったのだ。
北原作品について、私は必ずしもいい読者ではなかったが、それはお姉さまも同じことで、私の作品は四、五冊しか読んでいなかったと思う。それを責め合うこともなかった。小説家同士の付き合いは、大抵そんなもので、世界さえ感じ取れればそれでいいというところがある。
私の記憶では、酒というものが一番強く、しかしお姉さまは、あまり外での飲み歩きはしなかったという印象だった。それは正確にはわからず、私の傍若無人ぶりに辟易していただけかもしれない。二、三度飲み歩いただけで、お姉さまと呼びはじめ、嫌がられてもやめず、酔うと若い女の子のいる店にばかり行きたがる私には、飲み友だちの資格は多分なかったのだ。
悲しくなるくらい少なかった酒席でも、それなりのエピソードはある。なにかのはずみで、ぐい呑みを貰うことになった。北原さんは、焼き物をやっていて、ちょっと自慢したところを、私につけ込まれたのだ。
「自信作だよ。北原亞以子作として、人にも見せなくちゃならないし。場合によっちゃ、雑誌の取材なんかで撮影したりして」
私は悪質なプレッシャーをかけ、さらに意地悪に期限まで決めた。
約束の日、北原さんが持ってきたのは、師匠の神谷紀雄氏の作品であった。高名な陶芸家であり、箱書き付だったのだ。これで酒は呷れない、と私は言った。
「だって自信作が出来なかったんだもの。あなたがつべこべ言うから、気になってしまって。これで約束果たしたわよ」
お姉さまはどこか無念そうであったが、かように律儀な人でもあるのだ。
これは貰えないと私はもう一度言い、お姉さまは約束だと言い張った。結局、私はそのぐい呑みを預かることにした。自信作ができた時に、交換というかたちで返還しようとしたのである。
それからも、パーティなどで顔を合わせると、自信作と私は連呼した。うるさいと、何度言われただろうか。
お姉さまは、自信作を作らなかった。
死とは、そんな断絶でもあるのだろう。
神谷氏のぐい呑みは、いまも私の手元にある。これでどんな酒を飲めばいいのか、私にはわからない。