追悼

永別の短い言葉

三好徹

 長いつきあいのあったその友と最後に口をきいたのは三月二十九日の午後三時すぎだった。友人と書くと何かよそよそしい感じがするし、固有名詞を出して、それに「氏」とか「さん」をつけるのは礼儀正しいかもしれないが、そういう気分ではないのだ。前もって話を聞いていたからある程度は予想していたが、現実に悴れた情況を目にすると、すぐには言葉が出てこなかった。つきそっている若子夫人が、見舞いにきて下さったのよ、どなたか、わかるわよね、と声をかけた。
 「わかるさ。三好徹だろ」
 と怒ったようにいった。
 確かにわたしたちの間では、公的な場所で第三者がいる場合、佐野さん、三好さん、という言い方を用いたが、私的な仲間同士の場所では、固有名詞も使うことはほとんどなかった。
 「先週のゴルフ、出てこなかったね。何かあったのか」
 「発熱はしなかったが、かぜ気味だったんだ。それにカミさんから、もう若くはないんだから、といわれて」
 という会話をしていた仲だった。
 初めて出会ったのが一九五七年五月、読売新聞の記者同士だった。ただ、出身学校も社歴も違っていたし、将来の志望も別だった。わたしは、アメリカのジョン・ガンサーの向うを張るジャーナリストになるつもりだったし、彼は、とりあえず文化部の記者をつとめながら、文筆で生計を立てる気だった(らしい)のである。学生時代に同人雑誌仲間だった日野啓三の、いわば文学魂に強くひっぱられたことが「ミステリーとの半世紀」に出ている。日野は第七十二回の芥川賞を「あの夕陽」で受けるが、新聞社を辞めずに定年まで勤めた。日野は外報部(現在は国際部)勤務が長く、ソウルやベトナムに特派員として駐在したこともあった。
 記者が本来の仕事をしながら他社の刊行物に文章を書くことについて、それを禁止する規則はなかった。ただ読売新聞記者の肩書つきで雑誌などに執筆する場合は、事前に上司の了解を必要とすることになっていたが、話のわかる人なら何もいわない。その点で、わたしよりも彼は上司に恵まれていた。それでも一九五九年に退社し、多くの作品を書いた。
 当時は江戸川乱歩が健在だった。彼はこの伝説的な巨匠に作品を認められ、その謦咳に接することができた。わたしは何かのパーティのときに彼に連れられて乱歩さんの前に行き、挨拶の言葉を口にしただけである。わたしが新聞社を辞めて作家専業になったのは、ジャーナリストの道がふさがれたとわかったからだった。そのあと日本推理作家協会賞、直木賞を受けることができたのは、彼の友情と、読売での先輩だった菊村到さんの思いやりのおかげである。私の直木賞作品の「聖少女」の本に二人への献辞があるのは、わたしの気持ちのあらわれである。わたしには、文学上の師匠はいなかったが、小説を書くとはどういうことか、それを教えてくれたのは「月山」で芥川賞を受賞する前の森敦だった。森さんとは一九五九年に三重県尾鷲で出会った。「月山」は一九七三年である。もう四十年前のことになる。森さんは一九八九年七月に亡くなったが、わたしが駆けつけたときはまだぬくもりが残っていた。
 何人もの先輩、仲間、後輩の死に接してきたが、その遺体に触れたのは二人目である。わたしとの距離は本当に近かった。一週間のうち一日おきに三回も徹夜マージャンをやったし、夏は北海道、冬は沖縄へゴルフに行った。だが、小説について何か議論したのは、最初の二、三年だったような気がする。あるいは、互いにゴルフに熱中したことはあったが、どうすれば上達するかについて話し合ったことは、ほとんどなかった。
 ゴルフをはじめたとき、わたしは一回だけレッスンプロにレッスンしてもらった。対するに、わが友はレッスンプロについて何カ月かレッスンを受け、用具も世話してもらった。私がたった一回でやめたのは、理由がある。その人がよくない教師だとわかったから独学にしたのだが、初心者の場合は、独学よりもきちんとレッスンを受けるのがよいとする技芸習得の原理に、佐野洋は忠実だった。そのほか、ゴルフについての考え方には互いにかなりの差があった。いや、ゴルフだけではなくマージャンもそうだし、さらにいえば小説とは何かについては、もっと違いがあった。ただ、はっきりしていたのは、自分の考えをどこまでも相手に押しつけようとしないことだった。双方とも強情な性格だったのに、である。
 それにしても半世紀以上になる長い年月の間、互いに強情だったにもかかわらずつきあえたことは本当に幸運だった。友情という表現に新鮮さはないが、われわれの間に架けられていたものは友としての情の深さだったと思っている。とはいえ、いや、それ故に最後に病室を出るときの言葉は「じゃね」「ああ」だけだった。全くもって切ないやりとりだったが、「ありがとう」は永別になる感じがするので口には出せなかったのだ。それをここに記しておきたい。
(小説宝石六月号より転載)