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自由作文

夏目大

 自由に何でもいいから原稿用紙に五枚書け、と言われて、書いているわけだが、そういう経験が一度でもあっただろうか、と思うと、ないのである。これまで、文章を書く時には、必ず「テーマ」というものがあった。小学校の作文であれば、「ぼくのお母さん」とか、「遠足」とか「運動会」とか、そういうもの。読書感想文なら、読んだ本について書く。ところが、今回はテーマがないので、はたと困った。人間は自由を求めながら、本当に自由を得ると戸惑うというが、はからずもそれが実証されたことになる。
 これまでに書いた文章で、テーマとして多かったのはなんだろうか、と考えると、思い出すのが、「反省文」である。私は反省文というのを実に多く書いた。他の作文はほとんど褒められたことがないが、反省文はよく書けていると褒められることが多かった。反省文の名手、である。良いのか悪いのかまったくわからない。そもそも反省するようなことをしなければ書かないで済むものだ。反省文など一度も書いたことがない、という人の方が普通ではないだろうか。私は人よりも多く文章修行の機会を与えられた、ということかもしれない。と無理にポジティブに考えようとしてみるが、やはり無理がありすぎる。
 考えてみれば、私は反省文以外にも、普通の人があまり書かないような文章ばかりを書いてきた。翻訳文、という種類の文章だ。翻訳というのは、文筆業の中でも少々、変わった仕事だと思う。書くのは、言ってしまえば、すべて「他人の文章」である。書いているのは確かに自分なのに、その文章は他人のものなのだ。
 と、翻訳家と呼ばれる人間なら、ほぼすべての人がそう言うだろう。私は他人の文章を書いていますと。しかし、本当にそうだろうか、とも一方では思う。これは建前でしかないのではないか。本の著者はあくまで自分ではない、ということになっているから、確かに表向きは私の文章ではありません、と言うしかない。だが、本当に本当のことを言えば、他人の文章を書くなどということは絶対にできないのである。
 まず、原文著者が何を見、何を聴き、何を頭に思い浮かべて文章を書いたのか、それを私は知らない。同じものを見て、聴いて、思い浮かべて書くのは不可能である。あれこれと調べて、想像はしてみるものの、想像はやはり想像でしかない。結局、私は私が見たもの、聴いたものを元に、自分なりに想像をめぐらせて「似たような」文章を書くしかないのだ。しかも、私は自分の知っている手持ちの言葉を使ってそれを書く。表現の仕方、テクニックも全部、私のものであって、他の誰のものでもない。どうにか必死で本物らしく書き上げた文章を「著者が書いたものです」と言い張り、読み手も本当は誰が書いたのかを忘れて(あるいはあえて無視して)、原著者が書いたものだと信じて読む。
 悪く言えば「詐欺」である。詐欺では言葉が悪ければ、「嘘つき」だ。ただし、あくまで善意である。騙そうと思っているわけではなく、本物を読むことのできない人に、できるだけ本物に近いものを読んでもらいたいという。そっくりさんやものまね芸人、あるいは似顔絵に近いかもしれない。とてもうまくやれば、「本物より本物らしい」と思ってもらえる場合もある。正しいことかどうかはわからないが、本物より本物らしいとすれば、何らかの価値はあるのではないかと思う。もちろん、これはあくまで外国語のわからない日本語話者にとって、ということだ。
 長く翻訳で読んできた本を、後に原文で読んだら「えー、こんななの? なら翻訳の方がいい」という経験をする人は時々いるらしい。そういう訳文が書ければ一番いいと私は思う。当然、その人も、本が書かれた国で生まれ育ち、言語もネイティブだったとしたら、原著の良さが正しくわかり、翻訳の方がいいとはなかなか言わないだろう。でも、そういう人のために翻訳をするのではない。
 大事な仕事だとは思っている。ただ、妙な仕事だというのは確かだ。とにかく丁寧にやる仕事。たとえ何百ページあろうと、一行一行、じっくり考えて何ヶ月もかけて一冊を訳す。真面目でなければ務まらない。誠意も必要だ。なのに、根本のところが「嘘」なのだ。誠心誠意、人を騙す仕事。あんまり他になさそうだ。一流の詐欺師は、騙された方も幸せになるという。騙されたことに一生気づかないことも多いようだ。詐欺師も、そこまでいけば、不真面目では務まらないかもしれない。ある意味で誠意が必要な仕事なのだろう。ますます詐欺師と翻訳家の区別がつきにくくなってきた。
 ともかく、そうたくさんの人の目には触れないのをいいことに、一度はっきりと書いておこう。ここだけの話、私の訳した本の文章、あれはみんな私の文章です。著者の文章なんかじゃありません。嘘ついていました。ごめんなさい。
 はからずも自分の仕事についての反省文になった。また書いてしまった反省文。