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老人介護

響由布子

 それは一本の電話から始まった。義母を担当するホームヘルパーさんからだった。
 「もう一人暮らしは無理です。後はそちらで」
 ほんの数か月で義母は0から要介護3まで進んでしまった。認知症の進み具合は予想外に早く、行政の対応が追い付かなかった。
 引き取るにしても場所が無い。取りあえず徒歩で行ける距離の老人ホームに入ってもらって、そこに私が日参する事になった。
 身体が丈夫で頭が丈夫でないケースが一番難しいらしい。案の定、義母は色々な問題行動を起こすようになる。
 もっともそんなのは義母に限った話ではないのだが、私はかなり動揺してしまった。何とかボケを遅らせたい、と思った。
 最初は古いアルバムを持っていって義母に見せ、一つ一つ説明したりした。親戚の事、子供の事、住んでいた場所、昔話……。
 混乱した記憶、欠損した記憶を丁寧に元に戻し、「また明日来ます」と笑顔で帰った。
 ところが翌日になると昨日たっぷり時間を掛けて説明した話を綺麗サッパリ忘れている。仕方ないからまた説明を繰り返す。
 ホームの職員さんには「認知症と戦っては駄目。受け入れて」と言われたが、義母の様子が不憫で、私の感情が付いて行かない。
 入所当時の義母は高飛車で嫌な態度だった。「こんな所は嫌。帰る」といい、周囲の年寄りや愛想のいい職員を露骨に侮蔑していた。
 強い帰宅願望のせいなのか、すぐに深夜徘徊が始まった。その次に「私ってボケてるの?」と言い始めるようになった。
 私としてはまずそこを認めて欲しかった。でないと義母の言動はキツ過ぎてこっちが疲れてしまう。
 「ボケ老人と私は違う」という考えから起こる傲慢。周囲との軋轢もある。私と一緒で彼女は団体行動に馴染まない、馴染もうとしない女なのだった。
 しかし、ボケを認めさせる事は年寄りの自信喪失につながるのだそうだ。(ちょっとくらい自信喪失してくれないと困るよ)と私などは思うのだが、その考えは間違いらしい。
 そのうち義母が「私って認知症なんだ」「生きてても仕方がないね」などと言いだした。
 外出好きで年寄り嫌いな義母が、徘徊防止の老人ホームに蟄居……その精神的苦痛から来る逆上たるや、かなりなものだった。本当に死んだ方が楽なんじゃないかと思えてくる。
 認知症で一番つらいのは、まだらぼけの時期らしい。認知症と老人性欝は切っても切れない仲らしいが、こんなむごい病気、欝になるのが普通の反応ではなかろうか。
 傍で見ていても苦しむ義母の様子は可哀想だった。何度もらい泣きしたか分からない。
 そのうち暴力と暴言が出現してきた。これは怖かった。顔付きまで変わるのだ。
 この時期に怒鳴りあいの大喧嘩をした。理由は義母がいきなり職員に殴りかかったからだ。「いけ好かないから」という理由で。
 この人は昔からそんな理由で他人を傷つけてきた。二人の思い出が私をさらに激昂させた。私怨もあったのかもしれない。
 分からせるためと称して義母をピシャリとぶった。認知症相手に「ざまみろ!」と思ってしまった。
 ホームから戻って、激しい自己嫌悪に落ち込んだ。翌日ホームに行く足取りが重かった。
 でも行かないとおばあちゃんが可哀想。ああ嫌だ嫌だ。でも行かないと。けど会いたくない。でも行かないと。やっぱ行きたくない。
 私の葛藤をよそに義母は来訪を喜んで腕を組んできた。大喧嘩した事など記憶にない。あるいは憶えているのに、保身のために忘れた振りをしていたのかもしれない。
 機嫌の良い日には一緒に行事に参加した。
 中程度認知症のフロアはとても居心地が良い。他の年寄りはみな穏やかで親切だった。
 どうして義母はこんな風にならないのか。人の良い老人ほど家族が見舞いに来ないのは何故なのだろう。あちこち理不尽だらけだ。
 認知症だらけのコミュニティで、私はとてもリラックスしていた。今日からここに住みたかった。このまま全てをヘルパーに任せ、こっちが先に完全ぼけしたいとも思った。
 ところが私には問題が一つあった。ぼけ老人と真正面から向かいあっていると、仕事である官能小説が書けなくなってしまうのだ。
 「何をやっているんだろう自分は」
 ぼけ老人をホームに預けたまま、能天気な文章を書いている……落ち込みはかなり激しかった。苦しいし、自分が大嫌いになった。
 小説の中の妖艶な美女も、結局は目の前の老婆みたいになっちゃうという考えが頭にこびりついて離れない。老婆になると飾らなくなるから人格の嫌な部分がむき出しになる。人は醜いという厳しい現実が私を押さえ込む。
 ホームに入ってからの約半年、色々な事があったし、今もある。
 この生活があと1年続いたら、こっちのやる気が枯渇して官能が書けなくなる日が来るかもしれない。そんな恐怖が背中に乗った。
 というわけで私は今、生き残りをかけて色々と模索しております。