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逃げるなと、かの人は言った

嶺里俊介

 五月十日火曜日、朝七時過ぎに病院に着いた。朝食をとっていた父は元気そうな笑顔を見せた。
 手術の直前でも食事をとるのかと意外に思ったが、五時間以上に及ぶとなれば体力の維持には必然なのかもしれない。
 現在では九十九パーセント成功するという心臓手術でも、齢七十九となれば気に掛かってしまう。
「美味いな。ここの食事にしては珍しい」
 鮭を頬張りながら、父は言った。
 母は静かに微笑んだ。
 七時四十分に看護師が最終チェックに来た。体温と血圧、そして体重を計ったあと、手術室へと父を促した。
 専用エレベータで四階の手術フロアへ向かった。
 エレベータから降りても、フロアの先は曇りガラスで仕切られているので何も見えない。看護師がスライド式のドアを開けると、白い通路がまっすぐ伸びていた。
「それじゃ行ってくる」
 父は片手を挙げながら、看護師について歩き出した。
「行ってらっしゃい」
 いくぶん小さくなった父の背中に声をかけた。以前より背も縮んだように思える。
母は言葉なく、手を振った。
 ドアが静かに閉まった。七時四十五分だった。
 私たちは八階の病室へ戻り、荷物をまとめた。次に父と会うのは八時間後、五階の集中治療室だ。
 つい数か月前の正月が嘘のようだ。
 弟夫婦が我が家に集まり、日本ミステリー文学大賞新人賞の受賞を祝ってくれた。お年玉袋を手にした甥と姪は新作ゲームソフトの話に余念がない。
 私の授賞式前に予定されていた父の入院検査は式のあとにすると父に告げられた。
「何か悪いものが見つかって、式に出られなくなったら困る」
 受賞で気分が浮わついていたのは当事者の私だけではなかった。
 受賞作品が発表された小説宝石は親族だけで二十冊以上購入している。父は四人兄弟、母は七人兄妹である。大家族恐るべし。いまは予選本選問わず、選考に係わった方々の著作を読むことが親戚中の流行になっている。
 帝国ホテルの式典では、私の作品を推してくださった綾辻行人さんに挨拶したいと思って追いかけたが見失ったと父はぼやいていた。親戚の女性陣は名だたる文豪とお喋りに興じていたという。はたして失礼はなかっただろうかと私は蒼ざめるばかりだ。
 嵐のような日から三日後、胸に異常を感じた父が病院へ行った晩に電話が鳴った。
「ご家族の方へお知らせしたいことがあります。至急病院までおいでください」
 裏口のドアを開けておきますと言われて嫌な予感がした。
 心臓の冠動脈が実に七十五パーセントも硬化しており、三本とも血管内の血流を阻害しているという。投薬で血の流れを促すことはできるものの、一年はもたないと医師は語った。
 入院と決まってからは母と二人で交代しながら父を気遣った。発作が起きれば声を上げることもままならない。
 その後、冠動脈造影検査(心臓カテーテル検査)で撮影された心臓部の画像を見せられた。透けていたものの、躍動する左右の心室が判別できる。その表面を、黒い筋が通り過ぎていく。老木を思わせる、瘤のあるくびれた枝だった。
 病室で、しばし母と二人で呆けた。手術開始は九時の予定だから、もう始まっている。
 母は両手に顔を埋めて動かない。黙ったまま小さな背中を丸めている。
 ぽつぽつと湧いてくる不安を追い払うように手帖を取り出した。この時間を利用して新作のアイデアをまとめようと思ったのだ。集中すれば心配事も気になるまい。
 だが、これがどうにも続かない。
 昼食をとり、根津神社へ参拝してから部屋へ戻った。家族専用の待合室に移っても、心が千々に乱れてしまう。私の集中力はこんなものだったのか。
ふとある言葉が浮かんだ。
 三十五年前、学生時代に目にしてからというもの、今も心を打つ言葉がある。それは大島弓子さんのインタビュー記事だった。
その頃は『悪魔の花嫁』『王家の紋章』などのファタンジーものが少女漫画ジャンルを席捲していた。また、『スターウォーズ』に触発されてスペースオペラが流行りはじめたときだった。
 映画『2001年/宇宙の旅』の感想を訊かれていた。
「あのテーマなら、やっぱりあーなりますよね。でも……地上で、かまわないと思うんです。わたしなら、大地の上にします」
 (出典:『ぱふ』1979年6月号)
 当時中学生だった私には何を言っているのかさっぱり解らなかった。なぜ宇宙の話を地上にするのか、ちんぷんかんぷんだった。
 今ならその言葉を理解できる。
 私は逃げないと自戒しているのだ。
“主人公が人間であるならば、その作品で描かれるのは人間ドラマになる。現代日本を舞台にして描けない物語など何ひとつない。宇宙や異世界を舞台に据える必要はない。自分は決して逃げない”
 なんと崇高だろう。身震いするほど高く、眩しいハードルだ。
 逃げるなと、かの人は言った。
 目の前の現実世界から目を背けてはいけない。
 腕時計は十五時を過ぎていた。
 まもなく父の手術が終わる。