翻訳家の大切な一冊

理想の男、ドートマンダー

栗木さつき

 理想の男、それはドートマンダー。ドナルド・E・ウエストレークの『ホット・ロック』(角川文庫)を初めて読んだのは、十七歳のときだった。そして、やられた。まず、名前が渋くていい。ハードボイルドに登場する探偵たちみたいにカッコ良すぎない。「フィリップ・マーロウ」と比べてほしい。「ドートマンダー」、渋くてドスがきいてるけど、あんまりカッコよくない(世界各地のドートマンダーさん、ごめんなさい)。おなじ「ド」で始まる苗字をもつ俳優の「アラン・ドロン」と比べてほしい。ドロンさんの圧勝である(思い浮かべる顔も違うけど)。
 なのに、女子高生だった私は、ドートマンダーの個性に射抜かれた。ここでみなさんに、彼の魅力をプレゼンしたい。第一に、「人望がある」こと。ドートマンダー、三十七歳。二度の刑務所暮らしをして、仮釈放となったばかり。強盗をなりわいとしている独身男だ。そして、彼が声をかけると、錠前破り、運転手、なんでも屋など、昔馴染みがすぐに集結する。「あいつが計画する強盗なら、おれは乗る」と思わせてくれる男なのだ。
 第二に、仲間が愉快なこと。私がいちばん好きなのは、運転オタクのスタン・マーチだ。彼はあまり社交的ではなく、やはり運転オタクの母親と同居している。この母子の趣味は、自宅でインディ500のレースの爆音をレコードで聴くこと。だが、携帯電話がまだ使えなかった当時、強盗の計画があるんだが乗らないかとドートマンダーが声をかけるには、相手の自宅に電話をかけるしかない。ところがマーチはこのレコードを爆音で母親と一緒にうっとり聴いているので、なかなか電話に出ない。そして、ようやく電話に出て、相手がドートマンダーだとわかるとレコードをとめる。受話器の向こうが急に静かになったので、ドートマンダーはいぶかしみ、尋ねた。
 「どうしたんだ、窓でもしめたのか?」
 「いや、レコードをかけてたんだよ。それをとめたのさ」
 長い沈黙が続いた。(平井イサク訳)
 このくだりは、わりと冒頭のほうに出てくるのだが、ここで私は笑ってしまった。面白い。洒落てる。そして平井イサク氏の翻訳の軽妙洒脱なこと!
 第三の魅力は、ドートマンダーが「まっとうな」悪党であること。強盗仲間たちは、運転や錠前破りなど、自分の専門分野では腕っこきなのだが、その他においては全般的に抜けている。だから、ドートマンダーの強盗はうまくいかないのだが、それでも、彼はぜったいに仲間を裏切らない。アイデアマンでもあり、無理難題が降りかかってきても、そのたびに奇想天外な解決策を思いつくが、殺人や強姦などには決して手を染めない。そんなまっとうなところに、私はしびれたのである。それに『ホット・ロック』には、女性の脇役がほとんど出てこない。そこも、風通しがよかった。離婚歴のあるドートマンダーに、女っけはない。ただ、どこかポンコツで気心の知れた仲間たちと痛快な活劇を続けていくだけだ。「魅惑的な女(〝ファム・ファタール〟というやつ)が出てくるとロクなことはない」と、それまでの読書体験から学んでいた十七歳の私は、うわあ、こんなユーモア・ミステリもあるんだと感嘆したのである。
 スマホで撮影した写真は、昭和五十三年第五版の角川文庫だ。何度も読み返したうえ、女子高のクラスメイト数人にも「ものすごく面白いから、読んで!」と貸したので、表紙の左下、親指を当てるところが破けている。無理やり読まされた友人たちはみんな、この本を律儀に返してくれたけれど、「お、面白かったよ……」という、社交辞令以外のなにものでもない微妙な感想を述べるにとどまった。無理もない。ドートマンダーのよさがわかる女子高生は希少動物なのだ。この作品の魅力がわかる人は周囲にいないと諦めていたが、翻訳の勉強を始めたとき、どんなミステリ作家が好きかと勉強仲間から尋ねられた。ウエストレーク布教活動においてずっと挫折を味わってきた私が小声で「ウエストレーク」と応じたところ、生まれて初めて「うん、うん! ウエストレーク、いいよねえ」という返事がもらえて、いやあ、嬉しかったあ。
 読書には、その作品を読むべき「タイミング」のようなものがあるのではなかろうか。出会い頭の恋みたいなものだ。私が高校時代にこの作品にめぐりあい、海外ミステリや翻訳という仕事に興味をもつようになったことを、いまでも感謝している。ありがとう、ドートマンダー、ありがとう、ウエストレーク!

★自己紹介に代わる訳著3作
『80歳、まだ走れる』(リチャード・アスクウィズ、青土社)
『SIZE 世界の真実は「大きさ」でわかる』(バーツラフ・シュミル、NHK出版)
『THE BONES OF THE STORY(邦題未定)』(キャロル・グッドマン、創元推理文庫、来年刊行予定)最後に挙げたのは、ノンフィクションの翻訳の仕事が多かった私が初めて翻訳を担当する海外ミステリです。