翻訳家の大切な一冊

胃袋で知るメグレ

和爾桃子

 ご存じフランス司法警察のメグレ警視は、ウエスト回りが気になる食いしんぼう(メタボという言葉は当時まだありませんでした)。多忙な地方捜査の合間にベルギー・北イタリア・フランス各地の郷土料理や地ワインを堪能し、ふだんの日にはアルザス地方出身の奥さんの手料理を楽しみにしています。
 そんなメグレ警視の料理本は何冊かありますが、やはり名うての食いしんぼうだった原作者シムノンが序文を寄せたのは、ロベール・J・クールティーヌ著『メグレ警視は何を食べるか?』(菊池道子訳・文化出版局)だけで、これが唯一の公認版と見ていいと思います。料理の項目ごとに原作からの出典引用、数行ほどの料理紹介とメグレ好みのお勧めワイン、そしておよそ二ページから三ページの四人前のレシピと、なんだかミニマリズムの見本みたいな構成が、とにかくわかりやすくて再現性が高い。古風なフランス郷土料理にご興味があるなら、レシピとお勧めワイン紹介だけでも絶対に買いです。
 本書はシリーズ副読本にももちろん使えますが、引用から判断するに、著者クールティーヌは個々の事件にさほど重きを置いていないようです。むしろ食を切り口にメグレの全体像をとらえ、苦労多き前半生から充実した働きざかりまでの歩みやメグレ夫人の人となり、おうちごはんに彩られた穏やかな家庭生活を浮かび上がらせています。このへんはブリア・サヴァラン以来のお家芸でしょうか、いかにもフランスらしいまとめ方だなという気がします。
 一見ほのぼの夫婦のようでいて、メグレ夫人のご亭主操縦術も侮れません。よく読めば、料理の腕前を隠れみのにしながら高度な心理テクニックをさらりと駆使しているのです。鋭い洞察力をそなえた夫にも気づかせないほどに。いやまあ、メグレなら承知の上で知らん顔をしている可能性もありますけど。次の出典引用など、家庭円満のバイブルにしたいような古だぬきの化かし合い、もとい、おしどり夫婦のお手本ではないでしょうか。

――夕食には戻れるの? お昼は残念だったわ、エスカルゴだったのよ……。
 食事をしに家に帰らないときに限って、たまたまメグレの大好物があるのだ。(「アルザス風エスカルゴ」より)

「家に帰らないときに限って」「たまたま」「大好物がある」
 ……恐ろしすぎてコメントは控えますが、所帯持ちの端くれとして、この夫人だけは敵に回してはいけない人だと感じます。それはもう、ひしひしと。

 ところで、この料理本の邦訳刊行は一九七九(昭和五四)年でした。したがいまして出典引用は旧訳版に準拠し、フランスの事物になじみがなかった時代ゆえのささいな間違いもわずかに見受けられます。

――あなたが、あれをどうやって作るのかしらって、いつも考えていたのよ……。
 メグレ夫人が夕食に出した鶏のワイン煮のことだった。パルドン夫人は続けて
――後味が何ともいえずいいの。すてきだわ、何が入っているのかしら?
――簡単なのよ。 あなたはでき上がりにコニャックを入れるんでしょう?
――コニャックかアルマニャックよ。手もとにあるのをどっちか入れるわ。
――私はね、皆さんと違ってアルザスのりんぼく酒を入れるのよ。それが秘訣なの……。(「鶏の白ワイン煮」より)

 この「りんぼく酒」は間違いで、正しくは原種の小粒プラムを蒸留した無色透明な辛口の酒です。フランス語でプリュネル・ソヴァージュ、英語ではスローと呼び、カクテルにお詳しい方ならスロー・ジンの原料といえばおわかりになるでしょうか。アルザス特産の果物リキュールはおおむね無色の辛口が特徴で、だからこそ料理に入れても味がケンカしません。それを知らずに梅酒のような甘口の果物リキュールでうっかり代用してしまえば、食べられなくはないでしょうけど違う味になるはずです。
 私見ですが、料理書の翻訳はかなり大変です。原書の国とは調理器具も農産物の味も違い、本場の味を忠実に出したければ下ごしらえの手間を増やしたり、材料を差し替えたりしたほうがいい場合もあります。ひととおり翻訳を終えてからが苦労の始まりで、ひとりでも多くの人が失敗なく作れるようにレシピの再現実験を何度も何度も重ね、限界ぎりぎりまで無駄をそぎ落とさなくてはなりません。
 本書の洗練されたレシピは著者の功績と同等以上に、当時の日本で再現可能な翻訳に落としこみ、親切なワイン解説まで巻末につけてくださった訳者のご苦心のたまものです。残念ながら絶版とはいえ、古書ならまだ入手できます。いまだに古びず、フランス料理が日本にすっかり定着した今だからこそ役立つ一冊として、心からの敬意とともにお勧めいたします。
 この表紙を見かけたら、ためらわずに飛びついてください。後悔はさせません。

(自己紹介がわりの訳著三作)
・「蝋人形館の殺人」ジョン・ディクスン・カー(創元推理文庫)
・「クローヴィス物語」サキ(白水社)
・「マディバ・マジック」ネルソン・マンデラ編(平凡社 令和六年度児童福祉文化財)