入会のご挨拶
はじめまして、このたび入会させていただきました芦沢央(あしざわ・よう)と申します。
ご推薦を賜りました貫井徳郎先生、似鳥鶏先生に、この場を借りて篤く御礼申し上げます。
私は二〇一二年、『罪の余白』という作品で第三回野性時代フロンティア文学賞を受賞し、デビューいたしました。受賞の連絡をいただいた日から考えますと、先日デビュー四年目に入ったところですが、実のところ、これまでミステリ作家だと名乗ったことは一度もありません。
それは、自分がミステリ作家であると口にするのがおこがましいことだと感じていたからですが、もっと正直に言ってしまえば「ミステリを書いています」と口にして、「この作品のどこがミステリなんだ」と言われるのが怖かったのだと思います。
そもそも、私が初めてミステリというジャンルがあることを知ったのは、「金田一少年の事件簿」シリーズという漫画作品がきっかけでした。小学三年生の頃、兄が定期購読していた週刊少年マガジンで連載を発見したのです。兄と私はすぐに夢中になり、「真相当てクイズ」が掲載されるや否や二人で雑誌を奪い合うようにして推理合戦もどきを繰り広げるようになりました。今思えば、兄妹で膝を突き合わせて毒だの首切断だの言い合っている姿に両親は複雑な気持ちでいたのではないかと思いますが……。
やがて私たちは次の「真相当てクイズ」が待ちきれなくなり、オリジナルのトリックを考えてお互いに出題し合うようになりました。オリジナルと言っても、既存のトリックを少しアレンジしただけの代物で、どれも見たことがあるようなものばかりだったのですが、とにかくクイズを出し合い、解き合うのが楽しくて仕方なかったのです。
そのうちに兄が中学へ進むと、二人で「真相当てクイズ」に取り組むこともクイズを出し合うこともなくなりました。私も追うようにして中学生になり、部活にのめり込むようになると、ますます兄妹の会話は減りました。
それを特に寂しく感じていた記憶はないのですが、やはり心のどこかでは子どもの頃の楽しかった時間を懐かしむ思いがあったのでしょうか。私はやがて「真相当てクイズ」を盛り込んだミステリを書きます。今まで担当編集者にもほとんど話したことはなかったのですが、実は私が最初に書いた長編小説は連続殺人事件を扱ったミステリだったのです。
一人目が密室トリック、二人目がアリバイトリック……というようにいろいろなトリックを入れ、張り切って兄に見せ、真相がわかるかと迫ってみました。結果は惨敗。真相当ての前にトリックの矛盾を延々と指摘され、ほとんど既存のトリックと変わらないじゃないかと看破され、私はその小説を黒歴史として封印することにしました。
その後、様々なミステリを読むようになり、そのたびに、おお、こんな方法があったのか! わーすごい、こんなトリックが! と心を踊らせながらも、自分ではミステリに挑戦しようとしなかったのは、「私にはミステリは無理」だと思っていたからです。
私は、最初に小説を投稿してからデビューするまでに十二年かかっているのですが、そのうちの九年間はジャンルで言えば純文学に分類されるだろう小説ばかりを書いてきました。十年目、エンターテインメントを志すようになってすぐにある文学賞の最終選考に残ったため、「私はこっちの方が向いているんだ!」と調子に乗って立て続けに二作ほど書き、それでデビューが決まったのですが、それも正面からミステリを打ち出したものではなく、応募先もノンジャンルの文学賞を選びました。ミステリだと言わなければ、ミステリとしての瑕疵を指摘されずに済む……無意識のうちにそんな予防線を張っていたような気がします。
そのくせ、デビュー後もミステリへの憧れを捨てきることができませんでした。私なりにミステリだと考える作品を書き、ミステリだと言われればひっそりと喜んでいたのです。
それではダメなんだと思い立ち、担当編集者に「私、ミステリが書きたいんです」と相談したのが昨年の秋。ミステリとしての瑕疵を指摘されようとも、自分で「ミステリを書きました」と言うことができる作品を書きたいと思って書いたのが、先日第六十八回日本推理作家協会賞の短編部門の候補にしていただいた「許されようとは思いません」という作品でした。結果としては、残念ながら落選となりましたが、今度は黒歴史として封印するつもりはありません。
ご指摘を血肉とし、これからも大好きなミステリに挑戦していきたいという決意として、今回、日本推理作家協会への入会を希望いたしました。
未熟者ではございますが、精進してまいりますので、どうぞご指導ご鞭撻のほど、よろしくお願い申し上げます。