入会のご挨拶
この度、日本推理作家協会に入会させていただくことになりました、霧原一輝です。
高校、大学時代から憧れておりました錚々たる作家の皆様がお集まりになっているこの会に、私ごときが混ぜてもらってもいいのか、と正直なところ肩身が狭いす。
自己紹介をいたしますと、長編デビューが一九八九年十一月で三十六歳のとき(この時は別のペンネームでしたが)。それ以来、二十六年ほど官能小説一筋で作家生活をつづけてまいりました。
霧原一輝としてデビューしたのは、二〇〇六年七月でした。良き編集者さん、寛容な読者、そして運にも恵まれまして、この九年で一〇〇冊余りの長編を上梓することができました。
一時は仕事がなくて、破産宣告をしようかと真剣に考えたことがあるほどでしたから、当時のことを思うと、まさに隔世の感があります。
霧原の書く官能小説は、仕事にも私生活にも疲れた熟年世代が、若い女性と肌を接することにより、アイデンティティを回復し、性春を取り戻すという構図が多く、『回春ロマン』という呼び名をちょうだいしております。
個人的には、男女は百万語を費やすよりも一度身体を接したほうが、お互いを理解できる、と信じています。
肉体は口ほどに物を言う――。
会話は虚勢を張れるけれども、セックスは虚勢を張れない。つまり、どれほど隠そうとしても真実が出てしまう。
ベッドの自分が本性だとは言えないし、それは、あくまでも自分の一面でしかない。しかし、その一面は絶対に無視できない。
そのへんに、官能小説が成立するアリバイがあるのかもしれません。
小学生時代の読書記憶というと、モーリス・ルブランの『奇岩城』とマーク・トゥエインの『トム・ソーヤの冒険』、数々の伝記(とくに、南極を目指したアムンゼン)、そして、これは小説ではないのですが、『世界絵画全集』のなかの裸婦像でしょうか。当時は、ミレーの『横たわる裸婦』のお尻の割れ目を見てもドキドキしていました。
『奇岩城』は私にとっては、ポプラ社の南洋一郎の『奇巖城』でしたし、多分、今もそうです。
先日、堀口大学訳と南洋一郎の『奇岩城』を読み比べてみて、あらためて、南洋一郎のファンだったのだなと思いました。
「ああ、曲者はどこに行ったのか」などという詠嘆調は、昔、広場で水飴を舐めながら見た紙芝居と重なります。
『トム・ソーヤの冒険』に関しては、当時私は病弱で、名古屋城の金のシャチホコを毎日眺めつつ、入院生活を送っていましたので、トムとハックの冒険が羨ましかったのかもしれません。また、ハックルベリー・フィンの自由な生き方は男の永遠の憧れなのではないでしょうか。
そして、この二つの書物に共通するのは、わくわくドキドキ感であり、言い方を変えれば素晴らしいエンターティメント性であり、それは今の私が官能小説を書く上で、とても大切にしているところでもあります。
若干質は違いますが、官能小説は最良のエンターティメントでなきゃいけないし、作者はエンターティメントの構築のために、見えないところで甚大な努力を払うべきだと思っています。
こんな私が創作活動に関わるようになった最大の要因は、多分、七十年安保の激動期を愛知県の旭ヶ丘高校という、ちょっと異常な高校で体験したことだと思います。
ストライキはするは、全校アッセンブリーで一日授業を潰すは、デモをするは、制服自由化運動をするはで、とにかくあれは異次元の学校でした。
進学校で、優等生の自分たちを自己否定するところから入っているので、ちょっと複雑でタチが悪いのです。
私も新文芸部を立ちあげて、大江健三郎小論を書いたり、ソシュールの言語学やったり、10・21国際反戦デーでデモに出て、機動隊に追われて流れ解散し、地下の店でジャズの生バンドを聞きながら、お酒呑んで煙草吹かして、いっぱしの反体制青年を気取っておりました。
この時から、ハックルベリー・フィン化が進み、早稲田大学に入学しても、授業にはほとんど出ずに、演劇と女に明け暮れ、中退を余儀なくされました。
その後、演劇、執筆というコースを辿ったので、ちゃんとした会社で働いたこともなく、組織を体験したこともありません。
官能小説家という天職につけなかったら、多分今頃、どこかで野垂れ死にしています。私にとっては、たかが、官能小説、されど、官能小説なのです。