入会のご挨拶、のようなもの
小学五年生の時、担任の先生に「将来の夢」を聞かれた。私は「本が好きなので、将来は本に関係した職業に就きたい」と答えた。自分ではなかなか気の利いた答えをした、と思っていた。しかし担任は「本に関係した仕事と言ってもいろいろありますね。たとえば作家とか、編集者とか、本屋さんとか、印刷所の人とか。あなたは何になりたいんですか?」と、畳み掛ける。ませているようで現実を知らない小学生の自分は、それに対する答えを持たなかった。そしてその後進路を考えるようになった時、いつもこの問いが頭にあった気がする。
本に関係した職業のリストの中で真っ先に除外されたのは、作家という項目。作家というのは特別な才能の持ち主。自分のような平凡な人間がなれるわけがない、と思ったのだった。
次に除外されたのは書店員だった。書店でバイトしていた大学の後輩から「書店員は力仕事が多く、腰を痛めやすい」と聞いたからだ。浪人中椅子に座りっぱなしの生活で椎間板ヘルニアを患った身としては、これ以上腰を悪くするわけにはいかない、と思ったのだ。
さらに司書も除外された。大学二年時に大学図書館がデータベース化されることになって、すべての図書にバーコードが貼られることになった。その仕事を私はアルバイトで請け負った。図書館大好き、高校時代は近隣の図書館三軒の図書カードを持ってはしごしていた自分が、しかし、このアルバイトに音をあげた。物音ひとつしない室内で、淡々とシールを貼って行くその単調さが、退屈でたまらなかったのだ。利用者として好きな時に訪れるならともかく、毎日この静かで刺激のない空間に身を置くのは耐えられないだろう。
そして、最終的に興味を持ったのが編集という仕事だった。大学のクラブで同人誌の編集係を担当して、本を作る作業は楽しい、と思ったのだ。表紙を決めたり、掲載作品の順番を考えたり、目次やあとがきを書くという地味な作業が、なぜかたまらなく楽しかった。これが編集という仕事なら、自分はこれを生業にしたい。
しかし、現実は甘くなかった。なにせ時代は男女雇用機会均等法以前。ほとんどの出版社で女性の採用はなし。あってもコネ採用だけ。それで卒業と同時にフリー(ライ)ターとしてデータ原稿作りから仕事を始めた。それ以降は雑文書きで生計を立てながら二十代を過ごし、三十になった年にライトノベルレーベルを立ち上げた富士見書房(後に角川書店に吸収合併)に編集者として入社する。忙しく、充実した日々だったが、十五年ほど働いたところで、ふと心に隙ができる。正直に言えば、仕事に飽きていたのだと思う。ライトノベルというジャンルが立ち上がって行く時に立ち会えたのは面白かったし、それが伸びていくのを見ているのは楽しかった。しかし、その頃すでにジャンルとしての翳りは見えていたし、本来はライトノベル好きではない自分が、この仕事でできることの限界も感じていた。
小説を書いてみよう、と思ったのはそんな時だった。もやもやとした想いが小説を書くことですっきりする気がしたのだ。そうして出版のあてもなく(されるとも思わず)書き上げたのが「辞めない理由」という編集者小説だった。だが、それを見せた友人の大森望さんの紹介でデビューが決まり、そのままなし崩しに小説家になったのが四十代半ば。
編集者になるまではいろいろ悩み試行錯誤してきたのに、小説書きになるのは突然だった。周りも驚いたと思うが、誰より自分がびっくりした。自分は書き手になるより、それを応援する立場の方が似つかわしいのではないか。何かの新人賞を獲ってデビューしたわけではないし、ちゃんとした作家さんと同列に並ぶ資格があるのだろうか。そんな思いがあったから、書店員の集まりには顔を出しても、文壇のパーティには足を踏み入れる勇気がなかった。
それでも幸いなことに仕事の依頼があり、おっかなびっくりこなしているうちに気づいたら十年経っていた。十年という節目の年に、拙著が「戦う!書店ガール」というタイトルでドラマ化され、さらには鈴木輝一郎様、柴田よしき様のご推薦で、日本推理作家協会に入会させていただくことになった。これは、逃げるのをやめて、ちゃんと小説という仕事と向き合えという天の啓示だろう。とにかく十年続けられたのだから、言い訳はもう必要ない。
ともあれ小説を書くことは楽しい。小説の中では、実人生ではなれなかった敏腕編集者にもカリスマ書店員にもなることができる。それどころか名探偵にも殺人鬼にだってなれる。書いている間は自分の限られた人生の枠を外れて、まったく別の人生を生きることができるのだ。こんなに楽しいことはない。
たぶん、これから先も小説を書くことに飽きることはないだろう。だがそれをずっと仕事にしていられるかどうかの保証はない。十年後二十年後も小説を仕事として続けられるように、これからも精進していきたい