入会のご挨拶
このたび、日本推理作家協会の末席に加えていただくことになりました、白川紺子と申します。入会に際してご推薦くださった鈴木輝一郎先生と佐藤青南先生に、この場をお借りして御礼申し上げます。
2011年に雑誌Cobalt短編小説新人賞に入選ののち、2012年度ロマン大賞を受賞、2013年に受賞作がコバルト文庫より刊行されてデビューしました。著書に、「後宮の烏」「京都くれなゐ荘奇譚」「花菱夫妻の退魔帖」「海神の娘」などのシリーズのほか、『三日月邸花図鑑』『九重家献立暦』『朱華姫の御召人』などがあります。少女小説が好きで、デビュー当時からいまもそういった物語を書いております。
物心ついたときにはすでに読書が好きな子供に育っており、学級文庫や図書室の本を読みふけり、コバルト文庫やティーンズハートを友達と貸し借りして、感想を言い合ったりしておりました。通っていたピアノ教室では、置いてある本をレッスンの待ち時間に読むのが楽しみで、レッスンよりも読書に熱心な私に、ピアノの先生が仁木悦子の推理小説を何冊も譲ってくださったこともあります。以来、仁木兄妹シリーズに夢中になりました。
読むのは好きでも書きたいという欲求は薄く、それよりは読んだ小説を絵にするのが好きでした。高校生くらいまでは漫画家になりたくて、毎日せっせと絵や漫画を描いていたものです。小説のほうはといえば、美術部のかたわら文芸部にも所属していたのですが、年に数回、短編を書いては部誌に載せてもらうくらいでした。そのうちどうも自分にはコマ割りのセンスが皆無であると悟り、漫画家の夢に見切りをつけたころ、小説のほう―ではなく勉強が面白くなってきて、進学校だったのもあり、勉強に打ち込むようになります。
なんとなく「京都に住みたい」という思いがあり、かつ「校舎が赤煉瓦で素敵だから」という理由で大学を選んで進学しました。いまだにこの「なんとなく」で生きてゆく癖は抜けません。そんな生きかたができるのは、非常に幸運で恵まれたことだと、ありがたく思っております。
大学では国文学を専攻しました。このころ講義で石川淳の作品に出合い、大きな衝撃を受け、自分で小説を書くことはすっぱりやめました。それまでもたいして「書いた」と威張れるものは書いておりませんでしたが、趣味で書き散らすことさえしなくなりました。それだけ石川淳の小説に打ちのめされたのです。
大学卒業後は呉服店に勤め、その後地元で葬祭業に就き、カラーコーディネーターに興味があったので仕事をしつつその学校に通い、という生活を送り、やはり小説を書こうという思いには至りませんでした。
ふたたびなんとなく小説を書きはじめたのは、結婚してからでした。地元を離れて縁もゆかりもない土地に嫁いできたので、周囲に友人どころか知り合いすらおらず、しゃべる相手はほぼ夫だけという毎日のなか、ノートに物語を書きはじめました。それを個人サイトに掲載したところ、感想をくださる読者のかたがぽつぽつと現れたのが、大きな転換点だったと思います。自分の書いた物語が見知らぬ誰かを楽しませている、というのが驚きであるとともに、嬉しくなりました。
そのうち公募に投稿してみようか、と思い立ち、まず短編を送ってみたのが最初です。それが最終選考に残り、三回目の応募で入選、そして長編の賞にも応募して、デビューとなりました。正直、作家になれるとは九割くらい思っていなかったので、いまだに「これは長い夢なんじゃないか」と疑っているふしがあります。こんな調子でなんの覚悟もないまま、なんとなくデビューしてしまったがために、デビュー後、たいへん苦労しました。いまでもそうです。
この展開で面白いのか、この文章でいいのか、この人物造形でいいのか……つねに暗中模索で、自信がなく、ひとさまの作品ばかり良く見えます。過去に書いたものを読み返すと、あまりにも文章が下手なので落ち込み、キャラクター造形がつたなくて落ち込み、展開がありきたりで落ち込みます。それでも毎回、より良いものをお届けしたいとなんとか頭をひねり、勉強し、悪戦苦闘する日々です。原稿を書き上げたときには「はたしてこれは面白いのだろうか」と悩み、送られてきたゲラを読むと「面白い!」と安堵し、本が刊行される前には「読者に面白いと思ってもらえるだろうか」とふたたび悩む、のくり返しです。
こんな私が十年以上、作家として小説を書き続けていられるのは、ひとえに担当編集者をはじめとして巡り会う人々に恵まれたからだろうと思っております。編集者や作家仲間、作家の先輩がたに恵まれた幸運な人間です。どうもありがとうございます。
憧れであった推理作家協会に入会できたのも、ご縁に恵まれたゆえです。僥倖に甘んじず、鍛錬に励み、これからもより良い小説を書き続けていこうと思いますので、皆々様のご指導ご鞭撻のほど、お願い申し上げます。