追悼

永遠の青春 陳舜臣氏追悼

森村誠一

 陳舜臣氏の訃報を聞いたとき、私は櫛の歯が欠けるような寂しさをおぼえた。
 おもえば、私は一九六九年度第十五回の乱歩賞を受賞した。受賞前、すでに知遇を得ていた佐賀潜氏が私の受賞を大変喜んでくださり乱歩賞第十五回を記念して、乱歩賞受賞作家書き下ろしシリーズの刊行を講談社に提案した。講談社はその企画に賛同して、第一回目は佐賀潜氏と私の書き下ろし作品をもって幕開けをすることになった。
 佐賀潜氏はすでに病床にあり、
「治療行為はすべて終わった」
と、ベッドの上で次の作品を口述筆記していた。
 だが、重篤に陥り書き下ろしシリーズの幕開けには間に合わず、陳舜臣氏と私がペアとなってシリーズを開幕した。陳氏とはそれ以後のおつき合いになった。陳舜臣氏との出会いは佐賀潜氏の紹介と言ってもよい。
 当時、中島河太郎氏の提案により、故江戸川乱歩先生の命日に受賞作家が集まり、墓参の後、食事を共にしていた。年一回、歴代受賞者が集まり、墓参後の食事会と共に和気藹々たる集会となった。最初に出席したときは、私が末席であったが、陳さんと隣り合わせになり、一挙に親しくなった。
 その後、いつの間にか墓参は解散となったが、年一度の集まりには少なくとも受賞者十人以上が集まり、乱歩賞の味を共にしたものである。
 今年はすでに六十回。私以前の受賞者で健筆を揮っている人は、西村京太郎氏一人である。ほとんどの方は鬼籍に入っている。訃報は聞いていなくとも、消息不明になっている方もいる。
 その中で、陳さんは傑作を発表しつづけてこられた。乱歩先生の墓参以外に、特に陳さんと親密な距離を縮めた機会が二度あった。詳細は忘れたが、笹沢左保氏と親しくなり、なにかのパーティの解散後、陳さんと一緒に、ラウンジでコーヒーを喫んでいると、笹沢さんがやってきて、
「部屋を用意してあるから、泊まっていけよ」
 と突然、言いだした。陳さんも私も互いに都内に家があるので泊まる必要はなく、笹沢さんの突飛な招待に二人が面食らっていると、
「今夜、おれは、人気女優と共にこのホテルに泊まる。女優が眠ったら連絡するから、顔を見ていけ。女優がどんな顔をして眠るのか、作家だったら一応、見ておいたほうがいいぞ」と、勧めた。当時、笹沢さんは著名女優との艶聞隠れもなく、女優との密会を〝見学〟しろと言われて、ますます面食らったが、陳さんはどうやら笹沢さんの勧めに、その気になり、
「女優の寝顔なんて滅多に拝めない。折角のご招待だよ。一緒に行かないか、拝顔に」
 と、私に勧めた。
「そんなに凄いのですか。女優さんが注文通り眠ってくれるでしょうか? もし見つかれば痴漢にされてしまう」
 不安になった私が言うと、笹沢さんが、
「大丈夫。酒をたっぷり飲んで白川夜船だよ。もし心配であれば、睡眠薬を酒に仕掛けておいてやる」
 と答えた。
 えらいことになったとおもったが、大先輩二人に誘われて、断れなくなった。
 笹沢さんの保障通り、白川夜船の女優の顔は、いまだに美しい幻影のように私の瞼裏に焼きついている。
 その後、陳さんとは一種の同志、あるいは〝共犯者〟?のような間柄になった。
 二度目は、チンギス汗の生涯を共同配信の地方紙に連載したとき、陳さんから教えを受けた。二十紙に近い地方紙配信舞台を拡げられたのも陳さんのおかげである。
 その後、電話で話したことはあるが、直接お会いしたのは、講談社が乱歩賞五十回記念に歴代受賞作家の集まりを開いてくれたときであった。そのとき陳さんも参加されていたが、いつもよりも口数が少なくなっていた。
 戸川昌子さんが、
「『青い部屋』に行かない?」
 と誘ってくれたが、
「また女優の顔が見られるかな」
 と陳さんはつぶやいて、私と目を合わせ、にやりと笑った。
 あるいは私の耳の錯覚かもしれないが、陳さんや笹沢さんは、私にとって作家の青春時代の友と言えよう。そして作家たる者、創作しつづける限り、永遠の青春である。陳舜臣氏は、その手本を示すように永遠の青春を生きつづけた。
 慎んでご冥福を祈ります。