和久峻三さんに感謝
「平成最後の――」が何かにつけて連発された平成三十年の年末に、和久峻三さんの逝去が報じられました。
和久さんの謦咳に初めて接したのは、昭和もそろそろ最後を迎えるころに、滋賀県の近江八幡市で行なわれた講演会でした。まだデビュー前で推理作家を志していた私は、仕事を早退して最前列で拝聴しました。
その内容は、小説だけに留まらず、戦時体験から日本の裁判の特質に至るまで多岐にわたりました。とくに印象に残ったのは、次の二つでした。一つめは文壇に出るには自分の力を公証するためにも新人賞を取ることが必要だと考えて江戸川乱歩賞をめざしたこと、二つめは弁護士資格を持ちながらも作家をメインにしているのは自分の生きた爪痕を作品として残したいと考えているからだ、ということでした。
そのあとなんとかデビューを果たすことができた私は、K社の編集担当者が和久さんも担当していることを知って、講演会のときの話をしました。それがきっかけで、和久さんが「同じ京都だから一度会おう」と言ってくださいました。
和久さんの著書にも登場する京都北山のフレンチレストランに招いていただいた私は、少し緊張しながら向かいましたが、それはすぐに解けました。講演会のときの峻三さんのイメージは剛でしたが、レストランでの和久さんは柔でした。まさに名は体を現わしていると感じ入りました。考えてみれば、和久さんの小説の主人公も、柔剛併せ持つキャラクターが多いように思います。
それを機に、和久さんの文庫本解説を書かせてもらったり、何度も激励をいただいたりもしました。デビュー以来お世話になってきた森村誠一さんとともに、東西の名匠にサポートいただいた私は、実に幸せでした。
本会報でのリレーエッセイの企画のときには、和久さんからリレーのバトンを渡していただいたことも佳き思い出です。
あらためて、ご冥福を謹んでお祈りいたします。