新入会員紹介

入会のごあいさつ――「終わった人」も歩けば棒に当たる

秋永正人

 京都嵐山の渡月橋界隈。
 四季を通じ人影の絶えない京都屈指の観光地ですが、渡月橋から上流に向かって左側の小道は、対岸の人混みをよそにいつもひっそりとしています。幅二メートルもない小道を、右手に桂川(大堰川)のエメラルドグリーンの川面を見ながら歩いて行くとやがて道は古びた石段になります。息を切らせて登っていくと、やがて芭蕉が「花の山 二町のぼれば 大悲閣」と詠んだ大悲閣千光寺です。
 大悲閣は角倉了以ゆかりの寺で、伊勢湾台風で大きな被害を受けて以来、お世辞にも立派とは言えないボロ寺ですが、近年改修された客殿からの眺めはいつ来てもみごとです。ただ、真冬の嵐山は洛中より冷え込みが厳しく、さらに渡月橋から高度で七十メートルも高い山の上の寒さは半端ではありません。そんな厳冬の時期にこのお寺に来るのには訳があります。
 北森鴻を知っていますか? 二〇一〇年に四十八歳の若さで亡くなった北森さんは一九九五年に鮎川哲也賞を受賞しデビュー、民俗学や骨董をモチーフにしたミステリーを得意とした北森さんは大悲閣のたたずまいを気に入り、物心両面で大悲閣を支援し、この寺を舞台にしたミステリーを発表するほどでした。(その北森さんも、二〇二〇年で没後十年になります。)
 こうした縁で大悲閣は、早逝を惜しむ愛読者から北森鴻の聖地の一つに数えられ、命日の一月二十五日前後に全国から三十人ほどが集まり、周年法要「酔鴻忌」を開催してきました。私は北森さんが亡くなる二年前から少々おつきあいがあったのですが、生前の彼を知る人も、作品でしか知らない読者も一緒になって読経し冥福を祈ります。そのあと、大悲閣と同じくらいに酒を愛した北森さんを偲んで全国から供えられた銘酒を囲み、それぞれが北森さんやその作品に対する想いを語り合うのでした。
 やがてお開きとなり、大悲閣をあとに渡月橋へ戻る道すがら、厳冬の大堰川の川面には茜色に染まる比叡山の稜線と渡月橋が映っています。京都らしい風景でありながら、喧騒の嵐山らしくない静かな光景です。私は、北森さんの訃報を聞いて「昨日と同じ今日が明日もまた続く」と思い込んでいた自分の愚かさを悔いました。明日の命を保証されているものはないのだと、毎年この光景を見るたびに思います。今では、嵐山と聞けば厳冬のこの光景が浮かぶのです。
 もっと北森さんの作品を読みたかった。本当に彼の新作を楽しみにしていました。けれどもうそれは叶わない。そうだ! エッセイとか解説ならまだ読んでない文章があるはずだ。そう考えて北森さんの小説以外の文章、いわゆる雑文を探し始めました。そしてそれをまとめたのがリファレンス「北森鴻全仕事(著作一覧と執筆年譜)」です。雑文は雑誌等に掲載されてそれきりですから、あとから探し出すのが大変です。さらに、その雑文すべてを網羅した冊子「北森鴻雑文集完全版」を作成しました。北森鴻の仕事の集大成です。国立国会図書館にも納本しました。これを酔鴻忌に集う仲間たちと共有したい。全国の北森ファン、いや北森鴻を知らない人にも北森作品を読んでもらうきっかけとしたい。そうすることが私にとって北森さんへの追悼であり、私自身への慰藉なのです。
 酔鴻忌は、二〇一九年一月二十七日の第九回をもって終了し、同時に所期の目的を達したリファレンスも第六号で最終号としました。それに先立つ二〇一八年三月三十一日付で、私も〝終わった人〟になったのです。昨年の第三回日本推理作家協会七十年記念書評・評論コンクールに応募原稿をメールしたのは、三十八年勤めた職場を定年退職するまさにその日の朝でした。「香菜里屋はベータカプセルである」と題したそれは〝奨励作〟という望外の評価をいただき、さらには日本推理作家協会の末席を汚させていただくこととなったのです。
 とはいえ、退職した翌日から周りの景色がまったく違って見えた。わけではありません。昨日と同じ今日が明日もまた続きそうでコワイです。人生百年と言うけれど終わった人はこれからどうしたらええの? 今さら何したらええのかわからへん…
 ええい、こうなりゃ〝犬も歩けば棒に当たる〟とばかり、あちこち歩き回ろうと思います。北森鴻という作家にもっと陽を当てたい。江戸川乱歩生誕地であるわが町を周知したい等々。これからは〝棒に当たる〟というか、あえて棒に当たりに行く所存です。どうぞよろしくお願いいたします。
 最後に、周年法要の酔鴻忌は終わったけれど、北森さんの命日である一月二十五日はこれからもずっと「酔鴻忌」です。真夏の「石榴忌」と真冬の「酔鴻忌」。その季節の間であちこち棒に当たりに行くのも悪くないと思っています。